議題は何か?

この前の日記

「自炊」代行業者提訴の問題について - 愚者の戯文

に、こういう突っ込みを頂きました。

自炊代行業者提訴関連の記事メモ - taronの日記漂流先

法律のまとめ。ただ、この訴訟で惹起された議論は法律の前提になる「べき」論なんじゃなかろうか。個人的には「私的複製」が権利として確立されるべきと思っている。

自炊代行業者提訴関連の記事メモ - taronの日記漂流先

まず。

私が現行の解釈論を展開したのは、まず「現行の法律と、司法解釈がどうなっているか」と言うのは、立法論でも必須であるからです。

これが出来ていないのは、法律の専門家か、趣味で追いかけてる人じゃないと、やるようなものじゃないのでしょうがないとは思いますが、そうであっても「酷い」。
?Bのコメントとかの与太レベルならまだしも、いっぱしに記事たてて「論」として自分の弁を投げる人でさえ、それが出来ていないという状況どうなの?と言うのが、件の日記を書いたモチベーションです。
(ちなみに私は JASRAC と MAD テープ(えとけっとの系譜)、MAD ビデオの辺りから著作権周りを趣味で15年以上追いかけてる、ただの一般人です。)

そして、法律の前提としての「べき」論(立法論)をやるにしても、現行の法律が「何故そうなっているのか?」は必須ではないかと。件の日記ではここには「深くは」触れていませんが、解釈の中でちらほら触れています。

で。

前回は立法論的な視点ではあまり触れていなかったので、今回はそちらの方向から「私見」を展開します。

今回の話は「私の主観」が前面にあります。その立脚点は法律や社会のありように置くようにしていますが、「客観」ではありません。これは、立法論とは私と私の刷り合わせとして落とし所を探るものであり、絶対的な客観と言うものが存在し得ないからです。解釈論では「法」が絶対的な客観(とみなす)になるんですけどね。

「私的複製権」を新設すべきか

まず最初に、軽く突っ込まれた

個人的には「私的複製」が権利として確立されるべきと思っている。

について考えて見ましょう。

私は、これは反対であり、そもそも「無理」だと考えています。「私的複製とは何か」を考えると、それを「権利として確立する」こと自体が無理ではないかと。

著作物にかかる権利

まず。

多くの著作物は、「情報として著作」が「物体に固着された状態」で取引されます。
この状態を取らないものとして「インターネットにおける情報の送受信」があり、ゆえに著作権法が改正されて公衆送信権が制定されましたが、とりあえずここは置いといてください。

話を戻します。

「情報が固着された物体」としての「著作物」に関しては、権利としては2つのものが同居しています。

  • 物体として所有権
  • 情報としての著作権

これらについて、きちんと区別して考える必要があります。
区別が付いてなくて訴えてた人の「反論」を滅多切りにしていたのもありましたが、それもこの辺りの権利を混同して考えてるのが原因でしたね。

物体への所有権、考察

一般に「物体」に関しての権利と言うのは、他の「物」の所有権とほぼ変わりません。

違いがあるのは、例えば本などの再販制度で、本来物体の販売価格については、通常は自由に設定することが認められています。現在の日本では著作物では「書籍」「雑誌」「新聞」「音楽(音楽用レコード、テープ、CD)」についてのみ再販制度の縛りがあるが、基本的に「所有権の移譲に関しての値段」については小売の自由となっています。
ちなみに、過去にソニーが「ゲームソフトも再販制度品だ!」と言うことで小売を縛ろうとしましたが、これは司法で却下されています。他、映画における映画館の上映用テープの取り扱いなどが「物体の所有権」自体は移譲させない形を法として細かく組み込んでいる(貸与権)など、ちょこちょことした違いがあるにはあります。

他には、音楽CDなどの輸入権とか、「物体」面で見た場合でもかなり特殊な扱いのものが、あるにはありますが……

しかし、基本的に「物体の所有権」に関しては、古本屋などの古物商に対して、その「所有権の譲渡」が自由に行えるなど、概ねの扱いは他の所有物についてと変わりません。
この辺りについては、例えば「ゲームソフトの中古販売の裁判」などでも「中古販売を行ってよい」と言う判決が出ていることからも、確認できることです。

情報への著作権、考察

次。

情報としての著作権ですが、基本的にこれは譲渡されません。常に著作権者(not 著作者)に付随します。

その著作者に対して、「著作物に関する数々の財産権」が設定されています。

つまり、著作権自体は消費者に譲渡されたものではない。これは、無体物に対する価値を考える場合に、非常に重要な概念になります。

私的複製を権利として確立すべきか?

これらの違いをきちんと把握した上で、「私的複製は権利として確立すべきか」と言う問題になります。

私的複製とは?

まず「私的複製とは何か?」を再度考え直してみましょう。

現行の法律の解釈では「個人的な用途」と使い道を限定した上で「著作物の複製を行う」行為です。

早速、ここで問題が発生してしまうのです。「著作物の複製」と言うのが、「著作権権利者にのみ認められている、『複製権(第二十一条)』と言う権利」なのです。

そして「複製権」は消費者に移譲・譲渡・許諾、されているわけではありません。

従いまして、「私的複製」と言う「権利」を確立しようとすると、「著作物の複製権」を二重に成立させる必要が出てきます。

著作権とはどのような権利か?

ここで「社会としての一般的な感覚」として、「著作権」と言う権利を何故成立させ、認めているのかを考えます。

簡単にまとめてしまいますが、著作物を製作するというのは労力がかかります。

その労力に対して「著作物の製作をしていないものが複製する行為(フリーライド)を防ぐ」と言う目的から、著作権は作られました。成立経緯を細かく追いかければ、出版社同士の複製権('copy(複製)''right(権利)')から発生したもので……となりますが、長くなるので割愛。

これは「労働に対する対価」と言う意味で、有体物を作成する「所有権」と全く同じ考えに基づきます。農業、林業水産業など一次産業で考えると分かりやすいでしょう。

そして著作権とは無体物である「著作した情報」に対する権利であり、通常「無体物」とは「有体物に固着させる」事でしか頒布できない(出来なかった)事から、枝分権として有体物の概念もある程度含む、さまざまな権利が制定されているのです。

私的複製権

ここで戻りますと、「私的複製を権利として成立させる」と言う話は、先の通り「複製権」と言う権利を「著作物作成の労働を行っていないものに認める」と言うことになります。

これは社会的に認めるべき概念でしょうか?

私は認めてはならないと考えます。これは「自炊は著作物の利用シーンを増やす作業である」と言う話とは全く違う話です。「権利」と言うのはそれだけ重たい。或いは、『その程度には重たい』物です。

フリーライドを防ぐ意味で、「私的」とは関係なく、まず、「複製権を新規に認める」と言う考え方を認めることが【文化的所産の公正な利用(第一条より引用)】とは「言えない」と考えるからです。

まとめ

以上が、私の持つ

個人的には「私的複製」が権利として確立されるべきと思っている。

に対しての反論となります。

私は「私的複製」(他、権利制限に当たる項目全てを)『権利として確立』はしてはならないと「考え」ます。

なお、余談となりますが、米国の「フェアユース」と言うのも「権利」ではありません。特定の判断基準の下で「公正な使用(フェアユース)であれば、『その著作権の利用行為は、権利侵害とは認めない』と言うもので、この「公正な使用の判断」が日本のような列挙型ではなく、裁判での判断基準で示されている、と言うだけです。

そもそも「私的」複製が認められた経緯とは

権利としての確立への反論を行ったので、ここから先は「私的複製が何故認められているのか?」を考えましょう。「現行法となった立法論で(過去に)何が考えられたのか」と言う辺りです。

前回の日記は「現行法を解釈して、自炊代行の法的妥当性」なので、違う話題になります。

そもそも私的複製はどういう経緯で認められたものなのでしょうか?

元々は、「個人」が「個人的に、もしくは家庭内(に準ずる範囲)」で公開するために行われる複製行為(複製権の侵害)は

  1. 事実上の問題として家庭内の行為を禁止するのは難しい
  2. 【零細な行為】であるため、著作権者等の財産権を【不当に】害するとはいえない

と言う条件があったために、認められた物です。

現実問題として、著作物の複製を行うというのは、それなりの施設が必要でした。

出版物では、製版・印刷など。レコード、CDではプレス機。などなど。

もともとの copyright が「出版業者間の利害調整」から出てきたのも、そういう背景があってのことです。

そのため、著作物を正当な形で入手した利用者が、家庭内で行うような「零細な複製行為」は、著作権者の「財産権」を【不当に】害するとはいえない、として権利制限としたのです。

この項目は時代と共に何度も見直されており、大昔には「ビデオデッキが普及した頃」に「TVの録画は私的複製ではない」と言う裁判が起こされたりもしています。
審議会でも、ビデオデッキによる放送の録画、コンピュータソフトウエア、データベースなどについての審議記録などが残っています。

http://www.cric.or.jp/houkoku/houkoku.html

今回の話とは直接関係無いですが、過去から今に至る転換点の一つの事例としては、CDが普及して後の「デジタル録音」における「複製」の扱いでしょうか。

それまでは「アナログ」での複製であったために、「複製物」は必ず劣化していました。これは私的複製を認めていた理由の一つでもありました。

しかし、CD以後デジタルコピーが可能となったことにより、【複製物が劣化しなくなり】ました。このため、「零細な複製行為」であったとしても、著作権者の「財産権」を【不当に】侵害している(複製物が著作物と同じ価値を持つ)と判断されました。

そのため、「私的録音録画保証金制度」が1992年の著作権法改正で取り込まれました。

このように、「私的複製」と言うのは、あくまでも

  • 「零細な複製行為」である事
  • 【不当に】著作者の財産権を侵害しているとは言えない行為である事

が条件となるのです。

自炊代行業者と言う問題

自炊代行と言うのは「新しい業種」のように見えますが、実体はすでに過去から審議されてきたものと変わりません。

著作物の複製を生業とする業者です。

これについては前にも取り上げましたが

第2に「使用する者が複製することができる。」と規定し、複製主体を限定している。例えば、親の言い付けに従ってその子供が複製する場合のように、その複製行為が実質的には本人の手足としてなされるときは、当該使用する者(親)の複製として評価することができるとしても、例えばコピー業者のような複製を業とする者に依頼する複製は、この要件に該当しないものと解される。ただし、著作物に該当しないもの並びに著作物には該当するが著作権者の許諾を得ているもの及び著作権の消滅しているものの複製については違法となるものでないことは、いうまでもない。

http://www.cric.or.jp/houkoku/s51_9/s51_9.html

にあるように、過去から審議されてきた問題です。

【例えばコピー業者のような複製を業とする者に依頼する複製は、この要件に該当しないものと解される】

とあり、そもそも社内業務における複製ですら私的複製と認められないなどの判例もあることから、この判断は今まで変わっているとはいえません。

何故でしょうか?

これが、先に取り上げた私的複製を認める条件の2つ

  • 「零細な複製行為」である事
  • 【不当に】著作者の財産権を侵害しているとは言えない行為である事

これらに当てはまらないからです。

一つ目。個々の事例では確かに「個人の要請に応じての複製」であるため、「零細」と言えるかもしれません。しかし、「事業主」が行っている行為を見れば、到底「零細」とは言えない量の複製になります。
自炊代行業者もそれが曲がりなりにも「生業」として成り立つなど、明らかに「零細」とは言えない複製の実態がそこにあります。

「零細」とは言えない以上、それは「著作者の財産権(複製権。権利の問題であって、金銭の授受の問題ではない)」が侵害されていると言えるのです。

「個人の自炊の手間を省いていることが問題なのか!」と言うコメントがそこかしこに見られますが、「明らかに問題」なのです。

あくまでも「複製を個人が行うにはそれ相応に大変な行為」であり、「零細にしか行うことが出来ない」ために、【私的複製】として権利制限が認められているのです。

ここの判断は過去から今まで変わっていません。

『立法論として論じる』としても、自炊代行を認める場合には、CDなどの音楽著作物の複製代行、DVDなどの映像の著作物の複製代行などをどうするかと言う問題も同時に発生します。(コピーコントロール関係から不許可と出来ますが、それは業者による複製代行を認めた上で生じる制限のかけかたの問題で、認めるかどうかとは別問題です)。

電子書籍を出せばいい。その代替だ」と言いますが

  1. 電子書籍として売れば、著作権者の利益になる
  2. それを自炊代行業者が代替している

となると、それこそ「著作権者の経済的利益を不当に損失」させていることになり、認められるものではありません。或いはこれは出版権の侵害と言えるかもしれないものです。
出版社が自炊代行をやれよと言う提案もありましたが、これは立法論ではないので割愛。

結局、私的複製とは「使用する個人が苦労して複製する零細な行為」だからこそ「円滑な使用を優先してお目こぼしすべきだ」と言う話なのです。
これが『個人が複製する権利』を認めたわけではなく『著作権者に対して特定のルール下での複製は、法的には侵害とは判断しない』と言う制限になる理由です。

立法趣旨がそこにあるために、「自炊代行を認めるよう法改正すべきだ」と言う論には賛成できない。
利用者の利便性の問題よりも、著作者の損失の問題の方が大きいためです。
権利は抑制的であるべきですが、「法で認める権利侵害もまた抑制的であるべき」です。

まとめ

立法論で考えるのであれば、「消費者の利益」だけではなく「著作者の利益」も同時に天秤に乗ります。
自炊代行と言うのは、この天秤に乗せたときに、「著作者の利益」を大きく損失させかねないものです。危険すぎる。

そこで個別の著作物、個別の事例を取って「そうではない」と言うのは、『立法論として不適切』です。立法論を言うのであれば、著作物全体を同時に視野に入れなければならない。本以外も含めてです。

私的複製はあくまでも「零細」であるべきです。今後の将来にわたってです。零細であるからこそ、著作権の制限として立脚してよいと考えます。零細だからこそ「フェアユース」として認められるものだと。

本の複製は手間だ。それは認めます。しかしその「手間」がDRMの一種であり、「著作財産権」を守る一つの方法なのが、現実でしょう。

その手間をかけての複製、それ自体は禁止されていない。
だからこそ、「自炊代行は認めないが、自炊は認める」と言うのを法の落としどころとするのは、消費者と著作権者とのバランスのちょうどよいところだと、私は考えます。

?Bへの反応

反応したい追加が来れば順次追記していきます。

md2tak さん

複写開始ボタンだけリモートで押せるようにしたらどうなるんだろう?(すでにそういう議論はあると思うが) 2011/12/28

http://b.hatena.ne.jp/md2tak/20111228#bookmark-73827405

これは今日より、むしろ23日の日記側の話になりますが(解釈論の話なので)、おそらくアウトと裁判で判断されると考えられます。

ロクラク裁判が知財高裁では「違法ではない」と判決が出ましたが、最高裁で「違法である。差し戻し」となっています。
カラオケ法理がそうなのですが、「複製行為の条件を整える主体」になった場合には、そのサービスは違法、と言うのが現在の日本の司法の解釈と言えます。

ロクラク裁判での高裁での判決理由ですが、「個人が私的利用のために行う物なので、【不当な】利益侵害とはいえない」と判断していました。ネットで自炊代行を問題ないと言ってるのは、概ねこの考え方です。
しかし最高裁はこれを「放送電波をアンテナで受信して、機器に入力する部分で、電波を【複製】しているため、複製権侵害の主体と解釈するのが妥当」として、高裁を却下しました。
電波が入らなきゃ、ロクラクでの録画は無理なんだから、「電波を機器に入れてる奴」が「複製の主体だよね」と。

自炊代行でボタンのみ〜もこれと同じ解釈をされると考えられます。
すなわち、「業者が複写装置(スキャナ)に原稿をセットする」と言う行為が「複製行為の主体」と判断されると考えられます。最高裁がこれを頑なに守ってる。
よって違法と判断される可能性が高いです。
成文法採用での解釈として間違って居ないといえば、そうなのかもしれませんが……

ちなみに、まねきTV裁判と言う似たものがありますが、こちらは「ボタンだけリモートで」とはちょっと違う最高裁解釈なので、事例としては不適切と考えました。それ以前にかなりトリッキーに法文ひねくり回して違法にしてるとしか、言いようが無いんだけどね……