「私的複製権」を新設すべきか

まず最初に、軽く突っ込まれた

個人的には「私的複製」が権利として確立されるべきと思っている。

について考えて見ましょう。

私は、これは反対であり、そもそも「無理」だと考えています。「私的複製とは何か」を考えると、それを「権利として確立する」こと自体が無理ではないかと。

著作物にかかる権利

まず。

多くの著作物は、「情報として著作」が「物体に固着された状態」で取引されます。
この状態を取らないものとして「インターネットにおける情報の送受信」があり、ゆえに著作権法が改正されて公衆送信権が制定されましたが、とりあえずここは置いといてください。

話を戻します。

「情報が固着された物体」としての「著作物」に関しては、権利としては2つのものが同居しています。

  • 物体として所有権
  • 情報としての著作権

これらについて、きちんと区別して考える必要があります。
区別が付いてなくて訴えてた人の「反論」を滅多切りにしていたのもありましたが、それもこの辺りの権利を混同して考えてるのが原因でしたね。

物体への所有権、考察

一般に「物体」に関しての権利と言うのは、他の「物」の所有権とほぼ変わりません。

違いがあるのは、例えば本などの再販制度で、本来物体の販売価格については、通常は自由に設定することが認められています。現在の日本では著作物では「書籍」「雑誌」「新聞」「音楽(音楽用レコード、テープ、CD)」についてのみ再販制度の縛りがあるが、基本的に「所有権の移譲に関しての値段」については小売の自由となっています。
ちなみに、過去にソニーが「ゲームソフトも再販制度品だ!」と言うことで小売を縛ろうとしましたが、これは司法で却下されています。他、映画における映画館の上映用テープの取り扱いなどが「物体の所有権」自体は移譲させない形を法として細かく組み込んでいる(貸与権)など、ちょこちょことした違いがあるにはあります。

他には、音楽CDなどの輸入権とか、「物体」面で見た場合でもかなり特殊な扱いのものが、あるにはありますが……

しかし、基本的に「物体の所有権」に関しては、古本屋などの古物商に対して、その「所有権の譲渡」が自由に行えるなど、概ねの扱いは他の所有物についてと変わりません。
この辺りについては、例えば「ゲームソフトの中古販売の裁判」などでも「中古販売を行ってよい」と言う判決が出ていることからも、確認できることです。

情報への著作権、考察

次。

情報としての著作権ですが、基本的にこれは譲渡されません。常に著作権者(not 著作者)に付随します。

その著作者に対して、「著作物に関する数々の財産権」が設定されています。

つまり、著作権自体は消費者に譲渡されたものではない。これは、無体物に対する価値を考える場合に、非常に重要な概念になります。

私的複製を権利として確立すべきか?

これらの違いをきちんと把握した上で、「私的複製は権利として確立すべきか」と言う問題になります。

私的複製とは?

まず「私的複製とは何か?」を再度考え直してみましょう。

現行の法律の解釈では「個人的な用途」と使い道を限定した上で「著作物の複製を行う」行為です。

早速、ここで問題が発生してしまうのです。「著作物の複製」と言うのが、「著作権権利者にのみ認められている、『複製権(第二十一条)』と言う権利」なのです。

そして「複製権」は消費者に移譲・譲渡・許諾、されているわけではありません。

従いまして、「私的複製」と言う「権利」を確立しようとすると、「著作物の複製権」を二重に成立させる必要が出てきます。

著作権とはどのような権利か?

ここで「社会としての一般的な感覚」として、「著作権」と言う権利を何故成立させ、認めているのかを考えます。

簡単にまとめてしまいますが、著作物を製作するというのは労力がかかります。

その労力に対して「著作物の製作をしていないものが複製する行為(フリーライド)を防ぐ」と言う目的から、著作権は作られました。成立経緯を細かく追いかければ、出版社同士の複製権('copy(複製)''right(権利)')から発生したもので……となりますが、長くなるので割愛。

これは「労働に対する対価」と言う意味で、有体物を作成する「所有権」と全く同じ考えに基づきます。農業、林業水産業など一次産業で考えると分かりやすいでしょう。

そして著作権とは無体物である「著作した情報」に対する権利であり、通常「無体物」とは「有体物に固着させる」事でしか頒布できない(出来なかった)事から、枝分権として有体物の概念もある程度含む、さまざまな権利が制定されているのです。

私的複製権

ここで戻りますと、「私的複製を権利として成立させる」と言う話は、先の通り「複製権」と言う権利を「著作物作成の労働を行っていないものに認める」と言うことになります。

これは社会的に認めるべき概念でしょうか?

私は認めてはならないと考えます。これは「自炊は著作物の利用シーンを増やす作業である」と言う話とは全く違う話です。「権利」と言うのはそれだけ重たい。或いは、『その程度には重たい』物です。

フリーライドを防ぐ意味で、「私的」とは関係なく、まず、「複製権を新規に認める」と言う考え方を認めることが【文化的所産の公正な利用(第一条より引用)】とは「言えない」と考えるからです。

まとめ

以上が、私の持つ

個人的には「私的複製」が権利として確立されるべきと思っている。

に対しての反論となります。

私は「私的複製」(他、権利制限に当たる項目全てを)『権利として確立』はしてはならないと「考え」ます。

なお、余談となりますが、米国の「フェアユース」と言うのも「権利」ではありません。特定の判断基準の下で「公正な使用(フェアユース)であれば、『その著作権の利用行為は、権利侵害とは認めない』と言うもので、この「公正な使用の判断」が日本のような列挙型ではなく、裁判での判断基準で示されている、と言うだけです。