私も哲学に入ってる?(^^;;

ホメオパシーは確かに「正しい」
に突っ込んでみたところ

vid 証明能力のある無しで、その人が「信じている」だけか「確認した」かで、『世界は在りようを変えない』。科学とは世界の在りようを説明する説明書。まず世界がそこにある。そして世界が正しい。これを擬似は認めない 2010/09/27

突っ込まれた(笑)

inukorori 犬のメモ んー。//vid「我々の前に厳然として在る世界」を信じられるのは「我々」を信じられるときだけなんだよ。 2010/09/27

で続く
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20100925023112

vid inukororiさん、そこまで戻ると形而上面の問題となるので、哲学の領域です。それに世界は信じなくても、そうなります。人間は常に無視される。人間原理の「信じる」とは無関係にコトは起こるというつっこみです。 2010/09/27

b:id:inukorori 犬のメモ vidさんもすでに哲学の領域に片足入ってるようなw 言葉を借りれば、なぜ「人間は常に無視される」ことに耐えられないのか、という問いが鑑賞者に向けられるべきでは、というのがエントリの趣旨ではないかしら。 2010/09/27

やり取りが長くなりすぎたので、河岸移動しました。ごめんなさい。
 

で。私も哲学に足、踏み入れてますかね?(^^;;
いや、まぁ、哲学に近い領域になってしまっているとは思いますが。
と言うか、これ大元が情報学ブログと同じ間違いを犯してるのか。
 

ミ☆

大元のエントリから

今一度、問題点を問おう。科学というものは、証明能力を有する人間と利用する人間とで「正当」の意味内容が著しく異なり、しかも当の科学者であれ「正当」の普遍的な根拠が未決定の状態である。こう表現するとホメオパシー擁護論にも思われるかもしれないが、それは誤解だ。ここで言いたいことは、たとえホメオパシー支持者が科学的思考の持ち主でないとしても、ホメオパシーという体系それ自体が非科学的であることを決して意味しはしないこと、そして現代医学の科学性がホメオパシーの非科学性を意味しもしないことだ。後者の指摘については、免疫学が謎めいた「自然治癒能力」を反駁することが(今現在)できていないという一例でも分かるだろう。必ずしも、ある体系の正当性が別個の体系の正当性を否定するというわけではないのである。また、これが最も核心的なことだが、科学的証明とは無縁のいずれの「鑑賞者」にとっても、信じることで一方を支持し、信じないことでもう一方を唾棄しているに過ぎないという深刻な背景を宿していること。

この部分に決定的な問題があります。

しかも当の科学者であれ「正当」の普遍的な根拠が未決定の状態である。

科学者の「正当の普遍的な根拠」とは、『世界がそうだから』です。
例えば、その昔は光速は可変と考えられていました。しかし、何度実験しても、どのように実験しても、光速は一定でした。
科学者の考えが間違っている事例です。
そしてアインシュタイン相対性理論を構築・発表したことで、その理論が出来ました。
他にも、科学者の普遍的な根拠が「世界がそう反応する」にあることを示すエピソードとしては、量子力学でもありますね。素粒子の粒子性と波動性の戦いなど。
 
このように、科学者の「正当」とは、常に「世界がそう反応する」と言う根拠がある。未決定ではありません。
元エントリで例として

後者の指摘については、免疫学が謎めいた「自然治癒能力」を反駁することが(今現在)できていないという一例でも分かるだろう。

と言うのがありますが、これも捉え方を間違えています。
まず、免疫学自身の研究対象が「自然治癒能力」です。と言うか、医学全般は「自然治癒能力」の分析から始まっています。そして「自然治癒が何故出来ないのか」も研究対象ですね。
 

だから違うと考えるわけです。

必ずしも、ある体系の正当性が別個の体系の正当性を否定するというわけではないのである。また、これが最も核心的なことだが、科学的証明とは無縁のいずれの「鑑賞者」にとっても、信じることで一方を支持し、信じないことでもう一方を唾棄しているに過ぎないという深刻な背景を宿していること。

西洋医学ホメオパシーも「体の治癒」を標榜しています。
ここで、西洋医学は「誰にでも再現できる理論」が出来上がっている。
ホメオパシーにはそれが無い。

ある体系の正当性が別個の体系の正当性を否定するというわけではない

と言うのは、全く別の事例であれば正しいと「言える場合もある」わけですが、今回の場合は共に「体の治癒」と言う同じコトを扱っている以上、一方の正当性を正しく『否定』可能なわけです。
その上で、

また、これが最も核心的なことだが、科学的証明とは無縁のいずれの「鑑賞者」にとっても、信じることで一方を支持し、信じないことでもう一方を唾棄しているに過ぎないという深刻な背景を宿していること。

ここが、前段までのを全て投げ捨てて「信じる先が違うだけだ」と言う『信仰の自由』と言う正しさを述べてるわけですが。確かに、『ホメオパシーが信仰の領域』であればそれは正しいといえます。
しかし、元エントリが決定的に間違っていることとして、『ホメオパシーは科学を標榜しています』。
だから、『信仰の自由』の問題ではなく、『科学の問題』となり、「ホメオパシーは正しくない」と明確に言えるわけです。
科学は「信じる」という人間原理とは全く関係なく、「世界がそうある」と言うのが「正しさの基準」なのですから。

ミ☆

の上で、?B反応へ戻ります。

inukorori 犬のメモ vidさんもすでに哲学の領域に片足入ってるようなw 言葉を借りれば、なぜ「人間は常に無視される」ことに耐えられないのか、という問いが鑑賞者に向けられるべきでは、というのがエントリの趣旨ではないかしら。 2010/09/27

まぁ、哲学も好物なんですよね(^^;; 言葉と頭をこねくり回すのは嫌いじゃない。
数学は世界でもっともエコな学問だ。紙とエンピツがあればどこでも出来る……と言うのがありますが、哲学なんて頭一つあればいけるのを考えると、数学よりエコだよなと(w

閑話休題
 

前述のように、『信じる』事が『正しさ』の担保となっていない前提で。

治療に関して、被治療者にはいかなる治療を受けるか選択できる権利がある。このことをしっかり認めた上で、ホメオパシーに傾倒する被治療者を理性的に説得することは、果たして可能なのだろうか。

と言うところが一つのミソだとは思います。愚行権ですね。
しかし、ここに一つ落とし穴があって、「被験者に与えられる治療がいかなるものなのか?を正しく伝えられる権利」がホメオパシーでは侵害されています。西洋医学で言う「インフォームド・コンセント」ですね。最近になって西洋医学ではこれが重要視されるようになりました。
で、「正しさ」についてですが、ホメオパシーの理念と言う「正しさ」が否定されてるのは前述の通りです。だから、侵害されているといえるわけです。
逆に、ホメオパシーは鰯の頭ほどの効果しかない事を分かった上での愚行権であれば、それはもう文句を言う筋合いはありません。
しかし、現実問題としても、ここが全く守られていないのは、やはり問題でしょう。
 
ちとずれたかな。
?B返答へ。

「人間は常に無視される」事に耐えられないのか?

鑑賞者はこれを認識しているわけではな……と言うのは分かられていると思ってます。
鑑賞者が耐えられないのは「治癒しないという現実」であって、そこには「死の恐怖」と言うものがあります。
まさに「信仰」の領域にかかる部分でしょう。
そこで「治る」といわれると、それを「信じたく」なる。だって「治って欲しい」と言うのが願望だから。
つまり、鑑賞者が「信じてしまう」と言うのは、「表現者」が『鑑賞者の不安に付け込んだ詐称を行うから』の部分です。
人間は見たいものを見る。まさにそこの問題です。
となると、これはもう「ホメオパシーは確かに「正しい」」とか言ってるような話ではなくなります。明らかに、詐欺やカルト宗教の手口なのですから。

ミ☆

で、私の意図に戻ります。
元エントリが、「ホメオパシーは確かに「正しい」」と言うのを「信じることの自由」に求めました。
私はその「信じる事の対象の正しさ」と言うのを「正しいとはいえないから、信じるのは自由だ」の「正しいとはいえない」を『科学の定義』を理由に否定しています。
なのであの?Bコメントになっています。
 

inukorori さんの言われるように、哲学的な問題として

「我々の前に厳然として在る世界」を信じられるのは「我々」を信じられるときだけなんだよ。

と言うのは、確かに一理あります。
私は、これは「我々の前に厳然として在る世界」ではなく、「私と私以外」という哲学の古典問題であり、「私以外と言うものの存在を認識できるのか?」「私以外と言うものの存在は実在するのか?」と言う哲学部分だと考えましたが。確かこの答えは「認識でき、ゆえに実在する」と言う答えになるんじゃなかったかなぁ。思考の順序を覚えてない(−−;;
で、その上で

  • 私以外の私と同じく思考する存在(以下、他者とする)
  • 私以外に在る他者とそれら以外の認識について
  • 私と他者の間の、それら以外についての認識の共有について
  • 意思疎通と言うもの

などなど、一つ一つやっていかなくてはならない。
って、これ古典哲学で誰かがやってるはずなんですよ。何かで見たんだけど、さっぱり覚えてない(^^;;
 

ともかく、そういった「私以外の存在を、他者と共有できる」と言う部分すら「共有できない(信じられない)」と言う部分を問題としてしまうと、これは「科学」ではない、哲学の問題です。
で、大元のは

幸い、ホメオパシーについては科学でないということはテストによって容易に示されるかもしれないが、知識の欠けた「鑑賞者」に関しては全く問題が別である。

のように「知識に欠けた」と言う前提のある『鑑賞者』などであり、ここで言う「知識」とは『哲学に言う認識の共有』と言う話ではなく、『科学知識』と考えたので、「知識体系を信じる・信じない」と言う話と考えました。
なので、哲学領域ではないと。

ミ☆

なんかだいぶ話が発散してしまいました。
おまけにまとまりなくて本当にすいません。
元エントリの穴が多くて、本当はそこをもっと的確に突ければよかったんですが、どーもそうなってないおかげで寄り道になってしまいました。
 
元エントリが、証明能力でもって「信じる」しかない……と言うのが、どーにもずれてるように見えたんです。で、それを理由に「正しい」とまで持ち上げているのは、やはり、違うのではないかと。
もちろん、現実に『自分で体感していないから』信じないというのは、考え方としてはあるし、実際にそれを実践してるのも居ますけどね。アポロが月に行ったのは嘘だ!とか。
しかし、やはりそれらを理由に「ホメオパシーは確かに「正しい」」と言うのは、やはり間違っていると。
そういうことが言いたいんです。
 

言葉が下手で本当にすいません。