リファラトラップ用のダミー
Twitter の ID 呼び出しでのトラックバックもここに来るみたいですが、対象の日記が不明になるため、削除させていだきます。予めご了承ください。
まぁ?Bにも飛んでるはずなので、別途そちら経由で反応するとは思いますが。

ラノベファンが質問に答える

ラノベファンに質問がある
いろいろと盛り上がってるので、私も答えてみた。

自分の読書履歴

とりあえずはまずこれから。
私自身の読書遍歴は、正直最初の記憶がない(^^;;
小学校の頃から本が好きで、読めるものを手当たり次第の記憶はある。小学校の図書室で学習マンガを読んでみたりとか。どちらかというと読みものに近い動物の話とか。
で、ラノベの方向に転がるきっかけというのも思い出せないのだけど、方向性だけ考えると……小説系統だけ上げるけど……

  • 確か小学校の頃だったと思うけど、ルパンとかシャーロックホームズとかあの手の推理物(子供向けアレンジ入ってる)ものにはまる
  • ファーブル昆虫記とかシートン動物記とかも小学校の頃じゃなかったかなぁ
  • 中学で一度落語の本とかにはまった記憶がある。父は元京都の産にして(以下略)
  • 完全にこちらの方向に走り始めるのは、宗田理氏の「ぼくらの」シリーズから。映画はクソ。
  • 高校の時にスレイヤーズにはまって、そこから一気にラノベの世界へ

てな感じ。この後は、富士見F、角川スニーカー、コバルト、etc...に手を出してるけど、TRPGリプレイやらPBMやら、親和性高いものも同様に手を出してます。
ところで。

ライトノベルとは?

ライトノベルの意味合いがとっ散らかってるのはいろいろと経緯があるが、ジャンル的なごった煮になってるのはその出自が出自だからだと考えている。
てなわけで「ライトノベルとは何か」から始めちゃうわけだが。

ラノベは何故ジャンル分けされない?ライトノベルという呼称は既に不要ではないか? 
ラノベはファンタジー、恋愛、ギャグ(?)、ミステリと内部で全く違うカテゴリがあると思う。
しかし語られるときは「ラノベ」だ。これはおかしいし、共通の要素は「ライト」という曖昧なものだ。昨今の「ミステリ」にも同じようなことが言えるが(剛力EXILEのあれとか私の嫌いな剛力探偵とかだ。剛力彩芽が嫌いなわけではないが、ただ単に剛力が出ている共通点がある)
まとめて語られることのデメリットも大きい。外部の認識がラノベ内部のどれかに偏ってしまい、食い違うからだ。

最後の質問からですな。
 
そもそも「ライトノベル」の言葉の発祥は nifty掲示板から始まります。
http://web.archive.org/web/19991008103835/http://www.nifty.ne.jp/forum/fsf/kikaku_w/ln_about.htm

ライトノベルとは。
 
 比較的若い読者、具体的には小学校高学年から20代くらいの人向けの文庫やノベルズから出ている小説の総称として、FSFで考えたものです。
 
 具体的には。
 
例)ソノラマ文庫角川スニーカー文庫富士見ファンタジア文庫
   電撃文庫、スーパークエスト文庫など。
   コバルト文庫集英社スーパーファンタジー文庫、講談社X文庫、
   小学館キャンバス文庫、C☆Novelsファンタジアなど。
(以下略)

なぜこのような定義になったのか?については
Aliログ:日記抜粋:ライトノベル
を参照……って、命名者本人のページも発掘できた。
名付け親だぞ: 神北情報局
「ライトノベル」の定義の狭さについて - Togetter
「ライトノベル」という名称誕生にまつわる秘話をNHK歴史番組っぽく - Togetter
ブクマにきちんとタグを入れるべきかなぁ……(^^;; ぐぐって発掘したので(笑)
 
というわけで、ジャンル分けの方向性がもともと

  • 海外産の小説
  • SF やファンタジーの書評を行う場所

これらと

  • 日本産の小説
  • 主に若い人向け。と言っても、すでに40年近い……ラノベの単語ができてからも20年以上の時間が経っているおかげで、私みたいな中年もいるが(w
  • エンターテインメント性が高い

これらを分けるための物でした。
つまりは「SF」やら「ファンタジー」やら「推理小説」やら、そういった「ジャンル」から分かれたものではなく、「海外産 SF/FT 作品」と「日本産のそれっぽいレーベルの作品」を分けるところからはじまってます。
結果、ライトノベルというのは「ターゲット年齢による分類を基本としたレーベルによる分類」からなってます。
だから、「SF」「ファンタジー」「推理」「ロボットアクション」「戦記」「恋愛」その他いろいろなごった煮な「ジャンル」となっているわけです。
「ジャンル分けされない」のではなく「ジャンル分けの軸が違う」というのが答えだと考えています。
 
ちなみに、ライトノベルの方向性を決定づけたんじゃないか?と上げる人が多い「スレイヤーズ」が出たのが、1990/01 ですね。
スレイヤーズで何が変わったのかというと、ちょっと当時の状況を網羅しきれてると思えないので、私は言葉としてまとまりません。
それでも出しちゃいますが、スレイヤーズが決定的に変えたのは「キャラクター」だと思うんですよね。世界を物語の添え物にしちゃった。キャラクターこそがすべてというか。
スレイヤーズ以前というと、「世界」が最初にある感じでして。
とは言っても、これがラノベの定義かというと、違うと思います。
スレイヤーズの影響が出るのは、少なくとも作品が出てから後ですから、ライトノベルの発明と1年未満の差しかない。
やっぱりそれ以前のところで分類が試みられてると考えるしかないんですよね。
 
そして話題は暴走する。
ライトノベルを考える時に、小説だけ見ててもしょうがないとは思うんですよね。
単語が発明された1990年よりも古い、1980年代には単語「おたく」が発明されてますし。おたく自体はもっと古くからあるわけですが。
アニメの小説化(ソノラマ文庫など)でメディアミックスはもっと古い。他、小説からでは AREAL(1986。ソノラマ文庫→ソノラマノベルズ)が OVA やオーディオドラマなどのメディアミックスも行われてます。ルナ=ヴァルガー(1988。スニーカー文庫)も思い出してみたり。これもOVAだったっけ。
要するに、今の「オタク」につながるようなジャンルと内容の爆発が、1990年までにいろいろと並列的に起きてるんですよね。
東浩紀分類のオタクの世代としては、第2世代での作品の爆発を受けたあたりに、ちょうど「ライトノベル」の単語の誕生がある。
おたく - Wikipedia
こちらから出すと、バブル景気世代で発明されています。
カンブリア紀みたい。
結局、ライトノベルが「SF」「FT」「推理」(以下略)のごった煮になってるのは、時代がそういう分類を求めたから、としか言いようがないかと。
 
で、最初に戻ると。

ラノベは何故ジャンル分けされない?ライトノベルという呼称は既に不要ではないか?

ライトノベル「と」ジャンル○○、という形で表記すればよいのであって、「ジャンル分けされない」(あるいはできない)訳ではない。
また、ライトノベルというのは、年齢帯的なものでの区分けとしても残っているため、不要ではない。
と考えます。
 
余談。
そういや、ラノベの推理の系譜ってなにが最初なんだろ?
聖エルザクルセイダーズが読者参加の結果、推理やってるのが最初? っていうか、ラノベの推理方面はコバルトを調べないとダメなのかな。そっちはあまり読んでない……
 
……ふと。NG88からのPBM各種とか、各種読参とか、本当にごった煮だったよなぁ……
そういや、ドラゴンクエストが1986年か。これも日本ファンタジーの源流の一つだしなぁ。
ともかく調べなきゃならない情報が多すぎて手が届かない。
ライトノベルの歴史を語ろうとすると - Togetter
hatikadukiさんによる『ライトノベル史』 - Togetter
結局、ラノベのジャンルがごった煮なのは、FSFの関係もあるし、その上で複数の流れが「ラノベ」でまとめられたからってのもあるんだよなぁ。

他の質問

とまぁ、ジャンルの話はまとまらないことがわかって思いっきりつっこんだので、残りを。

ラノベしか読まない?他の小説は読む?それは何故?どこに魅力を感じている?
魅力の確認と、読者がライトノベルから枝分かれしない事に疑問を持っている。

ラノベ以外も「読める」し、「読むことはある」。
けど、結局のところ主観評価で「面白いかどうか」が問題。
「面白い」かどうかって「ジャンル」の問題じゃなく、感性が合うかどうかなんだよね。

ラノベファンはラノベを一般娯楽小説(定義付けのために一般と称しているだけ)と同じだと思っている?
ラノベファンはラノベを「ラノベ」と別けられて語られる事を嫌っているように思う。
俺自信、ラノベは小説ではなくラノベだと思っている。侮蔑の意識ではなく、小説に求めるものが文章であるならば、ラノベに求めるものは文章から得られる情報だけではないと思うからだ。

小説(娯楽小説)→(ターゲット年齢による分類)→「一般小説」「ヤングアダルト」「ライトノベル」「ジュブナイル」「児童文学(児童小説)」

こんな感じかなぁ。

ラノベで、パロディ要素が殆どを占めるようなものはどう思っている?
俺はこれに関しては圧倒的に否定派だが、しばしばそういったパロディ乱造系の物がアニメ化されている。
そしてそれがあるからこそ、一般的な作品(定義付けのために)から分けられる事は否定出来ないのではないか。(もちろん他にも分けられる要素はある)

主観的な「好き嫌い」「好悪」と客観的にどう思うかは別。そしてこの場合「商業的に成功かどうか」というのも絡んでくるが、まぁどうでもいいか。
てーか、これを言い始めると、例えば映画では「裸の銃を持つ男」なんかが思い浮かぶわけで。
パロディ要素を思いっきり散りばめるというのは、ある種「教養を競う」という意味の娯楽でもある。
そもそも教養を競うという意味では、例えば西洋ではティーカップの模様とか、パーティーのテーマなどで遊ぶのが見られるし。
というわけで、他作品の知識を前提としたパロディ作品は、別に存在してもいいでしょ。
そういう「娯楽の手法」を「ライトノベル」で行っただけでしかない。
この手法をゲームで行った「プリズムコート」が脳内リンクしたが、余談。
 
つまりは、別にどうとも思わないなと。

百分率の調整問題

この記事に対してコメントを書いたところ、次のような?Bタワーを起こしてしまいました。
出来るだけ元のままをお届けしていますが、id コールのみ b: を頭につけました。
b:id:deztecjp さん、やたらとコール飛ばしてすいません。

vid
『県教委によると、73件の意見のうち、53%が女性教諭に理解を示す意見。34%が校長・教育長への批判、12%が教諭への批判だった』53+34+12=99//b:id:deztecjp さん、%は100になるよう最終調整が必要の突っ込みです。

deztecjp
b:id:vid 意見の実数を計算すると「教諭に理解:校長批判:教諭批判=39:25:9」となります。39+25+9=73 /追記:%では端数が出るので合計が100%にならないのは当然(むしろヘンな数合わせは厳禁)

vid
続き。今回の場合は最大の 53% で調整して 54%+34%+12%=100% と表記する……ってのは、義務教育の統計にあったはず。式だけでこの突っ込みは万人が理解できると考えていたのですが。「1%はどこ?」まで必要だった?

deztecjp
b:id:vid 念のため指導要領解説を見たけど、そうした内容は見あたらず。私は理系大卒ですが初耳。また報道では、必ずしも四捨五入のため云々の記述が入らない。場合によりけりみたいですね。

vid
b:id:deztecjp さん。百分率を扱う場合は「その他か、一番大きな数字で調整」して100に「あわせこむ作業」が必要です。誤差調整をしない場合は「100%にならない場合があります」の断り書きが必要です。

deztecjp
b:id:vid とはいえ、vidさんが何を指摘したかったのかは理解しました。説明ありがとうございます。

百分率ですが、そもそも百分率にした時点で「誤差」が発生しているため、「へんな数合わせ」はともかく「数値調整で100にする」事は問題にはならないかと。「誤差」を許さないのであれば、そもそも生データでよいわけで。
で、これについてですが、私は義務教育中のどこかで習った記憶があって

  • 100 にならない分は、「その他」で調整する
  • 「その他」が無い場合は一番大きなデータに+1 or 一番小さなデータから-1 で調整する

と言う調整方法を覚えています。
これは、「有効桁数」や「誤差の丸め方」とは違う話です。
 
この百分率調整の話ですが、
大阪府/How to 統計グラフ(3) 円グラフ・帯グラフ編
まなぼう統計 / 統計を知ろう・学ぼう / データの特ちょう・変化をとらえよう - 割合を表す - 円グラフ
まなぼう統計 / 統計を知ろう・学ぼう / データの特徴・変化をとらえよう - 割合を表す - 帯グラフ
このように、ちょっと違っていますが行政のページでも発見。
 
これに対して
第1回 構成比についてのお話 - 地域情報設計研究所
こちらのように、「100に調整するのは間違っている」と記述してるのもありますが、百分率の時点で「誤差込み」なのだから、この断言もどーかなーと個人的には思ったり。%からサンプル数が*完全に*再現できる(できなければならない)、という考えが違う気がしてなりません。
 
後、ちょこまかぐぐってみたところ、「誤差の関係で100%になっていません」と言う断り書き付きの統計データもいくつも確認しています。
利用上の注意|厚生労働省
例えばこれ

(2) 構成比は小数点以下第2位を四捨五入しているため、合計しても必ずしも100とはならない。

こちらに関してはあちこちで見つかりますね。
 
んで。
いくつか見てる中では「社会の円グラフや棒グラフを作るときに」と言うページをちらほら。
習ったのは算数or数学じゃなくて、社会だったのかなぁ……
というわけで、更にいろいろとぐぐってみたところ。

やっぱり算数で、円グラフ・帯グラフで出てきてるっぽい。ただ、指導要綱じゃないところが出所?
てなところで、調査ワードの発想が切れたので、この話題放り投げ!

自炊代行の業態考察

では、ここからはハンドルも出しまして。

http://d.hatena.ne.jp/vid/20111223#c
において Sonir さんとのやり取りが白熱しております。
と言う事で、論点となる部分のみをここに取り出しておきます。
「私が考えている」抜き出しなので、抜けがあったらすいません。

Sonir 2013/09/30 20:02
>この場合は「店舗から複製される書籍を持ち出さない」場合は、「書籍の持ち主は店舗である」と言う判断になり、「法律上の利用者=店舗」と判断されます。よって、客が複製することは「利用者による複製」にならず、違法と判断されると考えられます。
(中略)
法律論として素直に読み解けば、自炊業者が用意した書籍を用いての自炊は違法とはならないと思いますが、さすがにそれでは拙いので何らかの法理を用いて禁止することになるかとは思います。

vid 2013/09/30 21:46
Sonir さん。
「他人のもの」でもというところで例に挙げられたものですが。
 
一つ目。「レンタルCD」ですが、『この形式を取る場合は問題にできない』とすでに書いています。
あくまでも「原本」も「複製機」も「店から持ち出した上で、使用者個人が複製」を行う場合には、私的複製となるという話です。
レンタルCDは(基本的に)使用者が店舗から持ち出して複製を行いますから、30条の範囲になります。
したがって、同様に「裁断した本」を「著作権者から貸与権の許諾を得た上で、消費者に貸与」し、「消費者が複製を行った場合」は「私的使用」に当たるでしょう。
 
私の文章を引用していますが、その中で重要なのは
>「店舗から複製される書籍を持ち出さない」場合
です。この場合『書籍の使用者は店舗』として判断される可能性が高いです。したがって問題になります。
『消費者が店舗から持ち出すかどうか』『店舗が複製機を店内で使用する用途として用意しているかどうか』というのが一つの判断基準だという話です。
そしてこの場合の「私的使用」というのは、あくまでも「店舗が私的利用のために複製」する場合になります。「消費者に提供」した場合は「私的複製」にはなりません。「消費者が複製」した場合も同様です。
 
(中略)
>法律論として素直に読み解けば、自炊業者が用意した書籍を用いての自炊は違法とはならないと思いますが、さすがにそれでは拙いので何らかの法理を用いて禁止することになるかとは思います。
 
法律論として素直に読み解いた場合
・自炊業者が『裁断書籍(貸与権許諾を著作権者より受けている事)』と『複製機』のレンタルを行う
場合のみ、「私的複製」として認められる、というのが、現状の法律だと考えられます。まぁ、これは「自炊業者」とは呼べませんが。

Sonir 2013/10/01 23:02
貸与権」の範囲外の私的複製は違法とお考えのようですが、そうではありません。
私的複製を無制限に認めてしまうと、著作権者の権利を著しく害することになるので、その均衡を図るために生まれた権利が「貸与権」です。
貸与権」の範囲内であれば、対価を求めたり貸与を認めないことによって私的複製をコントロールすることができますが、「貸与権」の範囲外の貸与には著作権者の権利は及ばないので、私的複製をコントロールすることが出来ないのです。
ですから、自炊業者が用意した書籍をその場で自炊することを違法とするためには、むしろ店舗から持ち出さなくても「貸与権」の範囲内にあるとする理論構成をとる必要があります。

vid 2013/10/02 12:48
>Sonir さん
貸与権」についての現行法の解釈を完全に間違えています。
 
>「貸与権」の範囲外の私的複製は違法とお考えのようですが、そうではありません。
>私的複製を無制限に認めてしまうと、著作権者の権利を著しく害することになるので、その均衡を図るために生まれた権利が「貸与権」です。
>「貸与権」の範囲内であれば、対価を求めたり貸与を認めないことによって私的複製をコントロールすることができますが、「貸与権」の範囲外の貸与には著作権者の権利は及ばないので、私的複製をコントロールすることが出来ないのです。
 
ここが完全に勘違いしています。
貸与権は、「原本を貸し出すことで利益を得る形態」と言うのが、著作権者にとって財産的不利につながることで生まれた権利形態です。
一方、私的複製の制限は、「個人が個人の利用形態内で複製する場合は零細な複製になるために、違法とするのは実態に合わない」ために作られた項目です。
貸与権」条文は「私的複製」条文とは全く関係ありません。
貸与権によって対価を得たり、貸与を認めないことが出来る」事は「私的複製」とはなんら関係ない話です。
 
そして、「貸与権と無関係の貸与」であろうと、「本の所有権」については著作権者の権利は『全く存在しない』ですが、「本の内容の著作権」については「著作権者の権利」の対象です。
 
貸与権とは「本の所有権」について、一時移転による使用を認めるなどの話です。図書館などとも絡む。
一方「私的複製」とは「本の内容」が対象です。
 
>ですから、自炊業者が用意した書籍をその場で自炊することを違法とするためには、むしろ店舗から持ち出さなくても「貸与権」の範囲内にあるとする理論構成をとる必要があります。
 
全く関係ありません。
むしろ「貸与権の範囲である」事は、逆に「違法ではなくなる可能性」を高くします。
所有権の一時移転により、「利用者本人の制御下による所有物の複製」と判断される可能性が出てくるからです。
(他要素で違法となる可能性を否定できないため、断定は出来ない)
 
「自炊業者が用意した書籍をその場で自炊する」と言うのは、「本の所有権について一時移転が行われていない」と言うことになります。
したがって、この場合は「貸与権」は一切関係なくなります。
これが現在の「漫画喫茶のように店舗の外に本を持ち出さない場合」の法解釈となっています。
 
そのために「自炊業者が所有する本を、*自炊業者の管理下で*第三者による複製が行われ、この複製を第三者に譲渡している」という法解釈となると考えられるわけです。
 
貸与権」による「所有権の(一時)移転」がある場合は「利用者による複製」と言う言い訳が成り立ちますが、
「所有権の委譲が無い」場合には「*業者管理下で*利用者による複製」と判断される可能性が高いと、私は考えています。
 
結果、今回の裁判判決文を判例として引きますが
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20131001115316.pdf
「複製主体」が「業者」と判断されると私は解釈しています。
よって、私的複製の範囲外で違法行為と司法判断されるであろうと推測しています。
 
「本と言う有体物の所有権」と「本の内容と言う無体物の著作権」とを混同しないように注意してください。
その上で「複製主体が誰と判断されうるか」と言う問題なのです。

Sonir 2013/10/03 02:12
著作権者側は「複製権」で対抗できないものについて「貸与権」での対抗を検討するのは当然であり、両者を切り離して考えるのはナンセンスです。
論点を整理しますね。
 
 
?私的複製の為の要件
 
二つあります。私的使用目的であることと、使用者が複製することです。(著作権法30条
ここでいう使用者とは「複製」を使用する人であって、著作権法では複製の元になるものについて何らかの権利を有していることまでは要求していません。
ですから、複製元の所有権は私的複製の要件になんら影響を与えません。
 
 
?貸与によって所有権は移転しない
 
物権変動としては、多くの場合占有権の移転が起こりますが、今回のような店外持ち出し禁止の場合は占有権の移転も起こりません。
(店外持ち出し禁止の場合、著作権法上の貸与にはあたらないとするのが文化庁の見解ですが、民法上では成立します)
したがって、
>「貸与権」による「所有権の(一時)移転」
という論点自体が成立しませんし、占有権を要件とするならば、泥棒でも正当な権利者となってしまいます。
 
 
?「複製主体」が「業者」と判断される場合について
 
ユーザー自らが自炊を行う来店型店舗では、通常の法解釈では業者が複製主体となる事はありませんが、カラオケ法理を適用した場合は自炊業者を複製主体と考えることは可能です。
しかしながら私としては、附則5条の2からカラオケ法理の適用は整合性が取れず、なじまないものと考えます。
これを違法としてしまうと、コンビニでコピー取るのも違法となりえますし、附則5条の2を置いた意味がなくなってしまいます。

問題となるのは「複製を行う主体」は誰か

改めて論点整理します。

「複製権」と「私的使用のための複製の権利制限」

自炊と呼称される作業と言うのは、電子書籍を作ることです。
これは「本の内容の複製を作成する」と言う行為になります。
したがって、著作権法21条の「複製権」が必要となります(1)
 
これに対し、個人が行う零細な複製であれば違法に問わないと言うのが、30条の権利制限になります。(2)

複製を伴わない「貸与」に伴う「貸与権

一方で今回問題となっている「貸与権(26条の3)」ですが、これは「複製を伴わない形での公衆への著作物の提供」の権利です。

Sonir 2013/10/01 23:02
貸与権」の範囲外の私的複製は違法とお考えのようですが、そうではありません。
私的複製を無制限に認めてしまうと、著作権者の権利を著しく害することになるので、その均衡を図るために生まれた権利が「貸与権」です。
貸与権」の範囲内であれば、対価を求めたり貸与を認めないことによって私的複製をコントロールすることができますが、「貸与権」の範囲外の貸与には著作権者の権利は及ばないので、私的複製をコントロールすることが出来ないのです。

Sonir 2013/10/03 02:12
著作権者側は「複製権」で対抗できないものについて「貸与権」での対抗を検討するのは当然であり、両者を切り離して考えるのはナンセンスです。

貸与権(26の3)』の特異性とは「複製を伴わない公衆への提供」であるため、『複製権(21)の権利制限(30)』とは全く独立した概念です。
私が『貸与権(26の3)』でもって考察対象としているのは、「複製原本の管理者(《複製主体》)は誰か?」が『30条』考察には必須となるため、《原本管理者》を法的に解釈すると誰になるかに持ち出しています。
 
貸与権(26の3)』の成立経緯ですが、「《業者》による【営利を伴う】貸しレコード(レンタルCD)」と言う形による『公衆への著作物の提供』により、著作物の売り上げ減少が置き、《著作権者》は著作物の販売利益を失ったと言う事実からです。
これは著作者に対して利益還元されることが「望ましい」ために、『貸与権(26の3)』が新設されました。
成立経緯では「貸与による販売減少」でしかなく、そこに『私的利用による複製(30)』の考慮はありません。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318549.htm
文部科学省の資料です。

同様に文部科学省の資料
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/020/06122108/002.htm
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/010/07101103/004/002.htm
『30条』はそもそも昭和45年の著作権法成立当初から存在し、*当時は私的な複製と言うのはとても零細なために*、閉鎖的な状況で複製されるのであれば「権利者に被害は及ばない」として入れられた条文です。
※1このような想定のために、「時代の変遷によって著作権者の利益を著しく害する場合には再検討が必要」と言う事で、『複製機器の公衆提示が違法(30-1-1)』となっています。
※2ただし、契約処理の体制が整っていないことをかんがみて、図画の複製機器は対象外になっています。(附則5条の2)
コンビニコピー機の問題は※2ですね。
 
重要なのは、『貸与権(26の3)』は『【営利を伴う】《業者》に対する「貸与」と言う形での公衆への著作物の提供』に対してかけられた《著作権者》の消尽しない権利である事です。
そして『貸与権(26の3)(《業者》が対象)』は『私的使用のための複製(30)(《利用者》が対象)』に対しての「コントロール能力」には一切影響*していません*。
ですので
(Sonir さんの引用ですが、論点整理のために編集を入れています)

  1. 貸与権」の範囲内であれば、対価を求めたり貸与を認めないことによって私的複製をコントロールすることができますが、
  2. 貸与権」の範囲外の貸与には著作権者の権利は及ばないので、私的複製をコントロールすることが出来ないのです。

これに対してですが、《業者》の貸与による公衆の提示であろうと、なかろうと、《利用者》の『私的使用のための複製(30)』のコントロールには全く関係しません。《利用者》の「複製(21,30)」は常にコントロールできないのです。
貸与権(26の3)』とは《業者》に対する制限であって、《利用者》の「複製(21,30)」には関係しない権利です。
 
私が論立てて居るのは自炊と言う「複製(21)」を行ったとき、その《複製を行った主体》が《業者=複製者》なのか《業者≠複製者》なのか、ここを論じています。ここを論じるために『貸与権(26の3)』が必要になってきています。
なぜならば、カラオケ・漫画喫茶(貸与による公衆への提供では無い)などと貸しレコード(レンタルCD)・貸し本(貸与による公衆への提供である)では、「複製(21)」が行われたときに法律上の《複製主体》が違ってきているからです。
 
《業者=複製者》の場合は『貸与権(26の3)』は全く関係なくなります。この場合『私的使用のための複製(30)』条件から外れるために『複製権(21)』での違法行為になります。
《業者≠複製者》の場合は原本を『貸与権(26の3)』に基き《利用者》に渡した後(所有権の一時移転)、《利用者=複製者》ですから『私的使用のための複製(30)』の条件が重要になります。この場合、『私的使用の条件(30)』を満たしていれば違法にはなりません。
 
私の論じている対象ですが。
「原本の所有権」のために『貸与権(26の3)』を論じているのではありません。
「複製を行った《主体》」のために「原本の所有者は誰か」を論じているのです。そのために『貸与権(26の3)』による所有権の一次移譲を論じているのです。
何故このような構成をとっているかは、カラオケ法理や漫画喫茶(店舗から持ち出さない公衆への著作物の提供と言う業務形態)を論じたときの構成を参考にしているからです。

Sonir さんの論点への反論

と言うところで、再び Sonir さんの意見への反論に戻ります。

私の論点としましては

Sonir 2013/09/30 20:02
>この場合は「店舗から複製される書籍を持ち出さない」場合は、「書籍の持ち主は店舗である」と言う判断になり、「法律上の利用者=店舗」と判断されます。よって、客が複製することは「利用者による複製」にならず、違法と判断されると考えられます。
(中略)
法律論として素直に読み解けば、自炊業者が用意した書籍を用いての自炊は違法とはならないと思いますが、さすがにそれでは拙いので何らかの法理を用いて禁止することになるかとは思います。

自炊業者が用意した書籍を<自炊業者が用意している店舗内で>自炊業者が用意している複製機器を用いて複製した場合は、違法になると言うのが私の持論です。
なぜならば、この場合の「複製(21)」行為の《主体》は《店舗業者=複製者》であると司法判断されうるからです。この場合、「どの著作物を複製するか」の判断や、「実際の複製行為」を行ったのが《利用者》だったとしても、それは《業者》の監督下で行われたと解釈される、と考えているからです。
この考え方の根幹は最高裁判所によるカラオケ法理(クラブキャッツアイ事件)の解釈です。
 
音楽著作権侵害差止等請求事件
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=52186&hanreiKbn=02 検索ページ
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120549006120.pdf 判決文本文
カラオケ法理において重要なのは

《業者》が用意した著作物を《利用者》が利用しているのであり、これは《業者》による著作物利用と言える

と言う判断です。
「店舗から著作物を持ち出さない場合の自炊行為」もこれと全く同じ構図です。
ここに民法の占有権を持ち出しても意味はありません。この構図は「著作権法貸与権」は全く関係しないからです。
 
現実問題として考えた場合、「店舗に行く」事で「誰が複製行為を行ったか」に関係なく「客が複製物を手にする」以上、「店舗から著作物を持ち出さない自炊行為」を合法と言うのは、無理があります。
ダビング屋は、例え自分で操作しても違法と言うのがありますが
http://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000390
本の場合は「自動複製装置」の関係で 30条1項1号を適用できない(附則5条の2)としても、やはり同様に違法とすべきでしょう。著作者の利益を「著しく」損なっていると考えられます。

Sonir 2013/10/01 23:02
ですから、自炊業者が用意した書籍をその場で自炊することを違法とするためには、むしろ店舗から持ち出さなくても「貸与権」の範囲内にあるとする理論構成をとる必要があります。

貸与権の範囲内=《業者》による「貸与」が《利用者》に行われた」のであれば、《利用者=複製者》となって『私的使用(30)』の対象となるため、「違法ではありません」。
しかし「自炊業者が用意した書籍をその場で自炊すること」は、「店舗から持ち出さない」ために「『貸与権(26の3)』の範囲外」です。これが現行法の解釈です。
したがって「その場で自炊すること」はカラオケ法理により《業者》が「著作物の所有者」(カラオケ機器)であり、電子複製作業は《業者=複製者(利用者が手足)》となり、「複製物(電子書籍)の《利用者》への提供」は『私的使用(30)』の範囲外となり、『複製権(21)』への「違法行為」と考えられます。
この時の違反者は《業者》です。《利用者》ではありません。

Sonir 2013/10/03 02:12
著作権者側は「複製権」で対抗できないものについて「貸与権」での対抗を検討するのは当然であり、両者を切り離して考えるのはナンセンスです。

そもそも自炊周りの話は『複製権(21)』の話なので、「『貸与権(26の3)』で対抗」と言うのが的外れです。自炊業者が行っているのは『貸与(26の3)』ではありません。
『複製権(21)』の話だからこそ、『私的使用に伴う複製(30)』の条件が問題になります。

Sonir 2013/10/03 02:12
?貸与によって所有権は移転しない
 
物権変動としては、多くの場合占有権の移転が起こりますが、今回のような店外持ち出し禁止の場合は占有権の移転も起こりません。
(店外持ち出し禁止の場合、著作権法上の貸与にはあたらないとするのが文化庁の見解ですが、民法上では成立します)
したがって、
>「貸与権」による「所有権の(一時)移転」
という論点自体が成立しませんし、占有権を要件とするならば、泥棒でも正当な権利者となってしまいます。

私が行ったのは、店舗の外に持ち出し禁止の場合「所有権の(一時)移転」が「発生しない」事の確認項目です。
『私的使用(30)』の条件に関わるために、「論点」になります。

?「複製主体」が「業者」と判断される場合について
 
ユーザー自らが自炊を行う来店型店舗では、通常の法解釈では業者が複製主体となる事はありませんが、カラオケ法理を適用した場合は自炊業者を複製主体と考えることは可能です。
しかしながら私としては、附則5条の2からカラオケ法理の適用は整合性が取れず、なじまないものと考えます。

以上の通り、ユーザーが来店し、「店舗内の書籍を店舗内で複製」する業態は、《業者=複製者(複製主体)》となるのが現行の法解釈であり、『複製権(21)』の違法です。カラオケ法理がこれ。
この時点で附則5条の2は関係ありません。附則5条の2は『私的使用(30)』にかかるものだからです。

Sonir 2013/10/03 02:12
これを違法としてしまうと、コンビニでコピー取るのも違法となりえますし、附則5条の2を置いた意味がなくなってしまいます。

「ユーザーが来店」し「店舗内の書籍を店舗内で複製」する行為をこの文章に当てはめると

ユーザーがコンビニの本をコンビニコピー機で複写する行為

となります。
これは、今回の話の上では「コンビニの違法行為」になりますが、そもそもコンビニはそのようなコピー機の使われ方を想定していないために、立件されないでしょう。コンビニの本は「販売」のために置いているのであって、「複製原本」のために置いてはいません。
 
これは、ユーザーが本を持ち込んでコンビニでコピーする行為とは違いますし、
ユーザーがコンビニ店員に「これをコピーしておいて」と頼んでどっか行って、適当に時間潰した後で「ありがとう」ともらっていく(自炊代行業)とも違います。
また、「ユーザーが自分で本を持ち込み(コンビニ店員は関与していない)」「ユーザーが自分で複製している」と言うのも重要ですね。
よって「店舗で本を店内のみ条件で貸し出す自炊業態」を考察する参考には、一切関係無いです。

 
その上で附則5条の2と30条を考えますと、すでにリンク先を示した
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318549.htm
二 技術革新等に伴う著作権法の改正
の通りです。

ユーザーが本を持ち込んでコンビニでコピーする

と言うのは、著作権法30条1項1号(強調は Vid)

(私的使用のための複製)
第三十条  著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
一  公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器(複製の機能を有し、これに関する装置の全部又は主要な部分が自動化されている機器をいう。)を用いて複製する場合

により30条1項の範囲外になります。コンビニのコピー機と言うのは「公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器」だからです。
同様に音楽や映像を公共に提供されている自動複製機器を用いて「他者が著作権を持つ著作物の複製物を作成する」事は『複製権(21)』の違法行為となります。
これらは「個人が零細に行う複製」であっても違法なのです。
しかし、この「自動複製機器」と言うのが、附則5条の2によって制限がかけられています。

(自動複製機器についての経過措置)
第五条の二  著作権法第三十条第一項第一号及び第百十九条第二項第二号の規定の適用については、当分の間、これらの規定に規定する自動複製機器には、専ら文書又は図画の複製に供するものを含まないものとする。

コンビニのコピー機は「専ら文書又は図画の複製に供するもの」であるために、「他人が著作権を持つ著作物」を『複製(21)』したとしても、それが『私的利用の範囲内(30)』であれば問題が無いとなります。
附則5条の2は「複製機器」の範囲の制限であり、文書や図画の複製の機器であれば問題ないため、自炊代行問題では何一つ持ち出す意味の無い条文です。
 
と言うことで、現在【著作権者に無許可で行っても】違法にならない「自炊」関係の業態は以下の通り。

  • 店舗にスキャナなどを用意しての、時間貸し業態(自動複製機器を設置した場所の提供)
  • 店舗にスキャナなどを用意して、スキャナをレンタルする(自動複製機器の提供)

また、次に、【著作権者に許諾を受けて】行う「自炊」関係の業態は以下の通り。

  • 貸与権の許諾を受けて、裁断済みの本をレンタルする(貸本屋の形態)
  • 複製権の許諾を受けて、店舗内で用意してある本を店舗内で複製する(出版業:この日記で論じている内容)
  • 複製権の許諾を受けて、ユーザーから提供された本を電子書籍化する(出版業:自炊代行業)

今回違法判断出たのも自炊代行業が「許諾を受けていない(禁止されている)」のにやっちゃったのが理由です。
まぁ実際にやるとしても、前二つはおそらく許諾は出ないでしょうね(^^;;

自炊代行に絡む業態の法的考察

えー、私のところでも過去に自炊代行についての違法性を考察したことがあり、日記として公開しておりました。

http://d.hatena.ne.jp/vid/20111223

これについて、私の書いた考察内容に同日のコメント欄で反論が行われまして、コメントで何度かやり取りしております(^^;;
これ自体は全く問題ないのですが、いささか内容がとっちらかってきたので、一度立て直しと整理をかねて、日記に引き上げます。

余談

平成25年9月30日、自炊代行の裁判において、東京地裁による業者敗訴の流れを受け、検索した結果たどり着いてのあれこれが発端なんだとは思います。
私も判決文
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20131001115316.pdf
は目を通しました。
が。
今回は判決文の解説は特には不要かなーと思っていたり。と言うか、何もひねるところが無い、真っ当に条文解釈しただけなんですよね。この判決文。

その極東裁判の公平性を考え直す

では、この極東裁判の「公平性」をもう一度考え直してみます。
ここから先は「学問」での考察となります。
 
先に書いた「国際司法裁判所」に比べて、極東裁判では明らかにおかしな部分がいくつかあります。
その中で一番問題なのは、裁判官に日本人が居ません。
国際司法裁判所では公平性を担保するにおいて、裁判官団の中に当事国の判事が居ない場合は、当事国から1名の判事が参加します。
しかし極東裁判はこのような手法を取っておらず、「戦勝国により決められた判事」が裁判官団となっています。
この1点は「公平性」にとって致命的です。他にも、弁護士の選任方法や、国家主権も問題ですが、裁判官の公平性の無さに比べれば一歩劣るものでしょう。
したがって、「学問」の文脈において、極東裁判であろうと「公平性」に十分すぎる疑念は残ります。
よって、極東裁判に疑念を持つことは、「学問」の文脈において全くおかしな話ではありません。
 
以上が、極東裁判について疑念を持つことがなんら問題の無い行為である事を示す論です。
非常に簡単な流れです。
 
この不公正があるから、事後法が通ったという疑念もありますが、そこは今回は置いときましょう。

余談

では何故このような事が許されたのか?
については論じるまでもありません。それが「戦争の結果」と「条約」によって行われたものだからです。
したがって、日本は「政治」として不公平な裁判が行われた結果であろうと、受諾することになった。
 
近代史としてのここの「政治」の流れについては、別にどーでもいいです。私の興味の範囲外。
私の疑念は最初から変わらず、「被害者数は何人であるか?」です。
「学問」としてみるのであれば、前述の裁判の「判決」は全く役に立たないのは、「公平性でもって判断された判決」ではない=「『判決には』客観性が無い」ことから自明です。
したがって、裁判に提示された資料他を全て精査しなおす必要があると。
 
そしてもう一つ。
そうして精査した資料での「客観」が得られれば、それを『0から加算』していくのが、研究として正しい態度です。
30万人と言う「答えを埋めるように」資料を「当てはめていく」のは、「学問」として全く間違ったやり方です。30万人の被害者が居たというのは「南京裁判(政治)における主張」でしかなく、「学術的根拠(客観)から積み立てられた被害者数」ではない。そしてその「南京裁判」よりも「極東裁判」の方が「裁判における公平性」が上です。
だから、30万人派には「政治」でも「学問」でもコミットできない。これを言うほぼ全てが、30万人の被害者が「前提」になってる。先に述べたとおり、30万人は「公平・客観」が担保された数字じゃないから「前提」には出来ない。
そして「被害者数」ってのは証拠を積み立てた「結論」であって、「前提」じゃない。
で、ここから先の「死者人数」については資料探しになるので、ネットでの口論には参加しません。
 
上URLに上げた国際司法裁判所の裁判官認定の資料については、翻訳品である事を除けばそのものずばりなので客観性は十分に取れます。
南京裁判、極東裁判の裁判官などについては、どこの資料でも同じ内容ですから、URLあげるまでも無いでしょう。
 
以上。
極東裁判に疑念を持つことが全く問題ない行為である事の、非常に簡単な説明でした。

極東裁判・南京裁判への疑念

でまぁ、私がどうやってもぬぐえ切れていない、これらの裁判の問題へ。
端的に言ってしまえば、「裁判」と名がついているけど、これらの裁判って「公平性」を全然担保しているようには見えないということ。
これについては国際司法裁判所の話からが分かりやすいので、ここから始めましょう。

その前に一つあった

っと、こちらの「疑念」の前に書いておくことがあった。
これら裁判の話と言うのは、結局は私が疑念を持っている「南京事変の『虐殺者』『30万人』には疑念がある」と言う部分につながっていくのは間違いありません。
で、これら裁判を取り上げるのは

と言うのが第1にあります。日本での30万人説固執派は、その中国のプロパガンダに乗っかってるともいえますね。その上で

  • 南京裁判よりは公平性をもって裁かれた東京裁判の20万人説を採用しないのはおかしい。『政治』の立場で言うのであれば、20万人説を採用すべきである。
  • 『学問』の立場で言うのであれば、南京裁判の『30万人説』を『結論』として話を進めるのが、そもそもおかしな考え方である。

と言う事です。
あくまでも「30万人説への疑念」であって、それ以外のことに対しては、何も言ってません。
そもそも「歴史を裁判所が作る」と言うのは問題じゃなかったっけ?
 
私は別に「これら裁判をやり直せ」などとは言う気は全くありません。
当たり前じゃないですか。SF条約でもって決着している「政治の結果」をひっくり返すには、手間がかかりすぎですよ。感情面を抜きにしても、関係各国との調整だけでも一苦労だし。労に見合う結果が得られるとは、到底思いません。
「敗戦国」として「政治」の場の話は確定してるんでね。
 
その上で、学問・学術として「客観」として、30万説へ疑念を持ってるんですけどね。
「政治」を「学問の対象」として考えることは、全く問題ではありませんしね。

国際司法裁判所での「公平性」の担保

本題に戻り。
まぁこれは今現在のハーグ国際司法裁判所での公平性の担保の話になりますが。
今現在の国際司法裁判所のシステムと言うのは、次のようになっています。

国家主権

まず第1に、国家主権があります。
全ての国家は立場として平等であって、どこかの国家Aが別の国家Bより上と言うのはありません。

主権を預けるということ

ですので、国際裁判所で争う場合、当事者の2国がまず国家の主権を一時的に預けるという事を行います。
そうして一時的に「国家より上の存在」を作ることで、国家が国際裁判所の裁定に従うという形を取ります。
 
実例では、日本が竹島について国際裁判所に過去確か2度ほど訴えを行っています。
しかし裁判にはなっていません。それは何故か?と言うと、もう一方の当事者国である韓国が、主権の付託を行うことに同意しなかったからです。
 
このように、当事者国の二国が裁判を行うことに同意し、主権を預けない限り、裁判は行われません。

裁判官

http://unic.or.jp/information/international_court_of_justice/

裁判官の選定については、まず15人の国籍の違う人物が選ばれます。
その上で、裁判官に当事者国の国籍のものが居ない場合には、裁判官として1人参加できます。
よって、最大で17人の国籍の違う裁判官(内、当事者国の裁判官が1名ずつ)でもって、裁定が行われます。

まとめ

とりあえず重要な部分は裁判官の選定方法になります。
このような形で裁判官を選択することで、裁定の「公平性の担保」を保とうとしています。
他に、裁判をどこで行うか? 代理人・補佐人・弁護人は? などがあるのですが、とりあえずは裁判官だけで十分です。
公式公用語の問題もありますが、これもまぁいいでしょう。
 
一応書いておきますが、これだけ「公平性」を保とうとしている国際司法裁判所であっても、「大国寄りだ」と言う指摘もあります。
韓国の竹島を付託しない話で出てる韓国の主張ではなく、中東アラブなどで犯罪者として裁かれる長の話なんだけど……URLがでてこねぇ。

南京裁判・極東裁判は「公平?」

で、これらに戻るわけですが。

南京裁判

南京裁判での裁判官は、全員中華民国人です。
 
もうこの時点でダメダメですね。裁判において「公平性が担保された」とは到底言えません。
したがって、その結論が「公平に判定された」と推定するのは、かなりの困難さが伴います。
 
論点を間違えないでください。
私が問題としているのは「裁判と言うシステム」において、すでに「公平性が無い」と言う事です。なので「結論が公平とは言えない」です。

  • 関係当事者国の一方の人間だけが裁判官である。

国際司法裁判所が裁判官団の「公平性」を担保する方法に対して、全くそういう考えが見られません。よって国際司法裁判所における「公平性」と比べて、全く「公平性が無い」と結論付けることが出来ます。
 
ここからの派生として、「南京裁判での証拠資料」を「数字の論拠である」と言うのは、非常に問題ある数え方と言うしかない。
また、裁判と言うのは先に述べたとおり「政治」のシステムです。同じ「政治」のシステムとしての「裁判」である、極東裁判の方が、南京裁判より「裁判のシステムとして公平」を保とうとしています。
なれば「政治」として「より公平に裁定された極東裁判」の方が、数字としても「公平に近い」のは自明です。
だから、「30万人説は政治的におかしい」となるわけです。
 
おまけとして追記しますが、この「裁判の判決」を理由に30万人説を唱えるのであれば、それは「政治」の文脈での話になります。したがって、これを前提とする推察は全て「政治」の文脈での推察です。
これを「学問」の文脈で用いる場合、主張の出発点とはなりえるでしょうが、自明の結論とするのは乱暴と言うより他ありません。上記の通りその判断が「公平に行われた」とは到底言えない以上、「裁判でもって客観性が担保された」とは到底言えないからです。
「学問」の文脈で使おうとするならば「客観性」を全く別に論じる必要がある。

極東裁判

で、もう一つの極東裁判に行きましょう。
こちらの裁判官は

以上11カ国。
検事はどーでもいいとして、弁護人は日本人とアメリカ人でした。
南京裁判よりはマシな部分は

  • 裁判官が国籍の違う人物の複数人が担当している

です。
少なくともこの点において、南京裁判よりは「公平性」を保とうと努力しています。
したがって、「政治」の文脈で言うならば、極東裁判の「20万人説」の方を持ち出すのが、「裁判システム」「SF条約」の二つから導き出される正しい態度です。

結論

裁判の判決を持ち出すのであれば、まず重要なのはその裁判が「どこまで公平に行われたのか」である事は言うまでもありません。
その公平性において、南京裁判より極東裁判の方が、「公平性が高い」と言うのは、今論じたとおりです。裁判のシステムにおいて、極東裁判の方が明らかに高い。
その上で、これらの裁判やSF条約なども含めて、全ては「政治」の文脈での行いになります。
よって、「政治」の文脈で答える限りにおいて「20万人説」が正しいと考えるのが妥当です。