立ち位置

この問題で大元に出来る立脚点は二つある。
一つは「近代史の史学」と言う「学問」から。
一つは「政治」から。
で、語るのはどこからでしょう?
 
史学では前述の通り、史料・資料の客観性などの問題から、手を付ける気は無い。
これは同時にネット上での各種説に対しても確認コストがかかるから、どこにもコミットしない。
持論はあるが、これを殊更に「正しい」と言う気も全く無い。
 
『虐殺人数はともかく、虐殺があった』と言うレベルはどーでもいいのよ。「虐殺=30万」はコミットしないってのが持論。
戦闘行為の死者全てが「虐殺」かよと。戦死者30万人、内○○万人は虐殺と考えられる……みたいな論理展開も見たこと無いし。どれもこれでも30万=虐殺被害者数、として語ってる。
軍人が出てきたら、みんな抵抗なく地べたに寝て虐殺されるの待つのかと。
どーにも30万派の言い分って、一部=全部で語ってるようにしか見えないんだよね。
だから資料の客観性の話につながる。そして私自身は調べてあるものを「ネットに持ち込まない」のは、前述の通り。私の言も資料引用も信じずに、なじられるのオチが見えてる。
 
もう一つの「政治」。
これに関しては、
http://www.ibiblio.org/hyperwar/PTO/IMTFE/IMTFE-8.html
これが答えでしょ。20万以上(ただし、26万以上で訴えられたものが、20万になっている)。
極東裁判にはいろいろと疑念はあるが「政治」の立ち位置で言うならこの裁判で指摘された「20万以上」が妥当でしょ。
SF条約に日本がコミットしているし、極東裁判には中国が裁判官役で居る。南京裁判で使用された資料を再度使ってるのだから、事実上の2審目での答えだし。
「政治」を理由にした場合、30万の方が不自然。極東裁判を無視できるに値する相当の政治理由とは何なのでしょう?
極東裁判は別に南京事変の犠牲者数を数えるために開かれたものじゃないから? それは「史学」であって、「政治」じゃないですねで終る。そして「史学」は前述の通りで、口論にしかならんので、ネットで改めてやることは現状では無意味でしかない。
 
そもそも、自分の立ち位置はどこか、視点はどこかを、きちんと自覚して語っているのはどれほどでしょう?
私は少なくともそこは自覚しようとしているから、「第三者の客観」にコストがかかる口論に価値を見出してないわけですがね。
その上で、左から見りゃ中央ですら右だし、右から見りゃ中央でも左。
私は自分が「右方向」から見てる『と言われるであろう』事を自覚してる。で、「あなた」はどの方向から見てるか、どこまで自覚してるの?
まさか、自分は「正義の側から」とか言わないよね。