裁判と言うもの

東京裁判に疑念があることを書いたら、「否定論は疑念を持つやつらばかりだ」みたいな言説があった様子。
後でチェックするつもりが、どこでチェックしたのかすら忘れたという体たらくだが orz
でもまぁ、疑念を持つこと「事態が問題」と言われるのは、明らかに学問の上で間違った考え方である事を、「裁判システム」について論じることで軽く書いておく。

裁判とはどこに属するものか?

まず一番最初にここが来るが、裁判と言うのは国家の権利の一つで、司法に属する。
国家が、自ら立法でもって定めたルールを用い、そこに書かれたルールの裁定を行うのが司法の立ち位置だ。
裁判と言うのは、司法の「システム」であり、「国家運営」と言う『政治』のシステムの一つである。
 
そして裁判と言うシステム自体、当然のことながら議題に挙げることは問題ない。
一番近い例では、裁判員制度についてが、裁判と言うシステムについての議論と言える。
 
ここまでは裁判と言うシステム全般について。

判決についての議論は問題行為であるか?

次に判決についての議論は問題行為かどうか?
当然、問題行為ではない。議論は常に開かれているべきものであって、判決が問題かどうかを考えることに一切の問題点は無い。断定。
一番分かりやすい例は、二審制、三審制など、複数の裁判で判決を決めるシステムである。
判決について考え直すことなどが「問題だ」とするなら、当然、下級審を上級審で「再審査」する事だって問題行為だ。「判決について考え直している」のだから。
当然、裁判所・上級審以外の場で妥当かどうか問い直すことも問題ない。
それは例えば「学問」の立場であって、「法の妥当な解釈とは何か」など、研究するのは当然の行為である。
もちろん、市井でも問題は無い。
これらの「自由」こそが、民主主義の重要な要素であると言える。

裁判で担保が必要とされるもの

次に、裁判で担保が必要なのは何か?を考える。
裁判が正しく行われていると言えるには何が必要か?
いくつかあるが、一番重要な物は「公平性」である。
2つ、或いはそれ以上の対立する意見が、「正しく公平に扱われる」と言う事が重要になる。裁定者がどれかの意見に殊更肩入れしている場合、その場で意見が「正しく公平に扱われた」とは言えない。
公平な判断の結果、出された答えであるという事が重要である。
ここから政治の実務の問題であるが、裁判結果としてなんらかの権利を制限するなどが発生する場合、その強制力をどのように担保するかと言う問題が生じる。今回はここは論点とはしないため、深く踏み込まない。
 
ではその「公平性」はどのように担保しているのか?
それはディベートと言うルールによって担保「しようとしている」。担保「出来ている」ではない、注意。あくまでも、ディベートと言うルールによって、他のやり方と比べて相対的に公平性が高くあると「考えられる」と言う話。
 
では、そもそもディベートとはどのようなものか?
まず、一つの「議題」に対して、意見が対立している2つの陣営と、それを裁定する第三者に分かれる。
裁判を例に取ると、議題とは「訴えられた内容」であり、2つの陣営とは「原告」と「被告」となる。刑事裁判では「被告人+弁護士(弁護団)」と「検察」か。そして第三者が「裁判官」となる。
そして、お互いの陣営が「ルールに則り」証拠の提示、反論などを行い、最後に第三者が「どちらの陣営の論述がより説得力があったか」でもって裁定を下す。
なお、ここで書いたのはディベートのごく一部であって、最狭義の競技ディベートに近い説明になります。
 
ここで国家による裁判の話に特化していくが、「公平性」のためのルールとして、例えば次のようなものがある。

  • 判断の証拠は、それぞれの陣営が出した「証拠」のみに基く。自分で勝手に手に入れた証拠を判断材料にしてはならない。

多分、裁判員として選ばれたときに説明されるはずなんだけど、このように裁定者である第三者の人物が「勝手に入手した証拠(証言)」などは、どれだけ片方の陣営に有利なものでも判断材料にしてはならないんですね。
 
とまぁこのように裁判では「公平」なルールでもって証拠と論述をぶつけ合って、その結果をそして第三者が裁定すると言う形で、意見の「公平性」を担保している。
結果、「学問」の視点で見てもその「客観性」は高いとなる。