最後に

科学から『違う』とされた理論を『捨てないで研究を続ける』事自体は、問題ないんですよね。
問題は『客観的証明』をするかどうか。
ホメオパスはこれを全く行わない。
 

人間の感覚と、自然の法則が違うことは良くあります。
ホメオパスはこの誤謬を妄信しているところが問題なのです。
 

「水が情報を記憶する」かどうかなんざ、本来どうでもいいんですよ。
「未知の科学」かどうかもどうでもいいんですよ。
 

人間の治療である以上、ある一定のルールで持って「治った」と言えるはずです。
そして、『完璧な治療は存在しない』以上、「治らなかった」と言うのもまた出てきます。
これが『レメディを与えなかった場合と比べて、明らかに有意な差をもって治っている』事を『客観的』に示せばいいんですよ。
そうすれば、科学だってホメオパシーをもう一度研究するでしょうよ。
そういった『客観性』を全く示していない。
 

科学は常に機知だから、未知の可能性があるから否定できない?
これもまたおかしな話です。
『現実の現象として認知可能』であれば(ホメオパシーならば人体への影響がある)、『必ず』その現象は『発見可能』です。なぜならば『影響がある』から。
ホメオパシーはこの根本原理すら否定しますか? それは『影響がない』ものが『影響する』と言うことですか?
それこそ『論理的でない』ですよ。
体が治るなりなんなりのマクロな『影響』がある以上、その『影響の元』をどんどんと探求していくことは『必ず』可能です。これの途中で『影響を探知できなくなる』と言うのは絶対にありえない。技術的に探知できなくなるはありますが、それは『無から影響が現れた』事を示すわけじゃない。
『水の情報記憶』だろうが、身体に影響がある以上、「科学で未知」では片付かないんですよ。
そういった努力を全く行わずに、『水の情報記憶』を叫べば、それは論理破綻です。科学云々の話じゃなく、「客観性の提示」と言う論理学の問題です。
Aと言う影響がある。Aの影響があれば、Bと言う影響が出る。だからBが言える。
二重盲検法だろうが科学だろうが関係なく、この『論理学』が破綻しているんですよ。
 

科学はあらゆる可能性を否定しているわけではない?
そりゃ確かにそうでしょうね。
しかし、科学は可能性を否定できないわけじゃない。
そして科学は『未知』であることを『未知』と言うことは出来るんですよ。それを無視しないでください。
そしてホメオパスの言う「水は情報を記憶する」は『あらゆる可能性』ではなく『可能性の一つ』でしかありません。
科学は『是』と「否定できない(是とはいえない)」ではありません。
科学は『是』と『否』と『未知』と『分野外』です。
『あらゆる可能性』は『未知』であり、「水の情報記憶」は『否』です。
これを「是」と「是ではない」の二択でしかないという話にするからおかしな結論になる。「是ではない」は「否」と「未知」と「分野外」が混ざってるんですよ。
 

「水は情報を記憶する」と言うのは現時点で「否」です。「波動水」が「否」であるようにね。
これが将来的に「是」となる可能性は否定しませんが、それを言うには客観証明に耐えうる証拠が必要です。
客観証明された証拠も無しに「是」と言うことは科学ではありません。
したがって、客観証明された証拠も無しに「是」と言うのであれば、それは「科学」を名乗ることは一切許されません。科学は「是」と冠することを認めていないのですから。

 

未来において判断基準が変わることは否定しません。
もしかしたら未来では「水は情報を記憶する」事が客観証明されているかもしれない。
しかし『科学は現在判明している客観』でもって構成されたものです。
『未来の可能性』でもって『科学』を名乗ることは、やはり許されません。科学とは常に『過去から現在』のものでしかなく、その中に『未来の可能性』はないのです。未来の可能性は『未定』であって、『未知』ではない。
補足としては、科学に基づく推測としての『未来の可能性』はありますが、それは『過去の科学』に『基づく』物であり、『基づかない』願望ではありません。つまり、道としての断絶がないことの『証明』でもっての『未来の可能性』として「仮説」が成り立つのです。これは『未知の証明』であって、『未定(未来の可能性)』ではないのです。理論物理学の多くがこれですね。
 

軌道修正、閑話休題
ホメオパスは論理の『大前提』が、文字通りに「前提になっていない」のです。
ここは『論理学』として重要なポイントです。
前提が「是」であることを証明しないのであれば、それは論理ではない。
科学の問題ではありません。論理の問題です。
それを「ホメオパスの前提に立てば論理的だ」などと言うから、そもそも論理破綻ですというしかない。
 

前提の証明義務はホメオパス側にあります。
証明義務を放棄して叫べば、それは『客観』ではありません。『主観』です。
主観を叫ぶことは表現の自由です。
しかし、主観を客観と錯誤させることは『詐欺』であり『詭弁』です。
そして『詐欺』『詭弁』を語ることは、『社会学たる法』ではどう定められていましたっけ?
 

ホメオパシーが「オカルトである」と言う態度なら何もいいませんけどね。
中途半端に科学の権威を盗む以上は(科学でわかっていないだけで未来で証明される!と言う喧伝は、『私は科学です』と言う喧伝です)、徹底的に『違う』と言うしかないでしょう。
『いわしの頭も信心から』『病も気から』は、事実、効果があります。しかしそれは『心理学』の分野であり、化学・医学(薬学)・物理学では『プラセボである』事が証明されてる。
客観的反証をそろえて反論するならともかく、そのようなことを全く行わずに『200年前の科学の絶対性』を唱えるのは、『科学』じゃない。