科学と論理

さて。長文。
とりあえずコメントの全文を転載しておきます。

infobloga 2010/08/10 19:25
ご紹介ありがとうございました。
 
論理と科学は違いますよ。
 
たとえば、「水は分子でできている」という仮説を考えます。
 
科学は、実験1,2,3...nとあったとき、
1-nを説明する仮説を考えます。
仮説「水は分子でできている」によって、
実験1,2,3...nが説明できると考えるのです。
うまく説明できたことで仮説が支持されます。
ただ、「全ては神が司っている」という仮説でも、
1,2,3...nを説明できます。
というように、論理で考えると、
「水は分子でできている」ということは言えないんです。
「水は分子でできている」は、
いろんな仮説の一つです。
 
さて、科学を科学としているのがなんなのかというのは
「検証可能性」だと言われます。
しかし、検証というのは、
「現在の科学的知識に基づいた検証」なので、
科学の正当性は循環してしまっているのです。
ご存じの通り、論理的に言ったら、循環論法は正しくないということになります。
 
ただ、科学は論理的には循環論法からもしれないけれど、
その方法論は優れていて、
科学の「検証可能性」に基づいた考え方によって、
さまざまな成果をもたらしてきました(有用性)。
そして、今まで、神や幽霊という形でしか説明できなかったものを、
説明できるようになりました(説明可能性)。
こうしたことによって、
私たちは科学の方法論を信頼しているのです。
 
…とことなのですが、
科学と論理が違うことが理解していただけたでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/vid/20100810#c1281435952

まずは

…とことなのですが、
科学と論理が違うことが理解していただけたでしょうか。

科学と論理は違いますよ。それは私も最初の最初に書いています。
infobloga さんの意見で決定的に受け入れられないのは、科学と論理の主従関係を逆にとらえている事なんですよ。
私は科学は『科学である事』から出発していません。
infobloga さんの言う「科学の論理の検証は科学的知見に基づいて検証される」とした場合、0を定義出来ないために帰納法で破綻します。だからトートロジーが起きるので、と言う話になるのではないですか?
だからこそ、この矛盾でもって私はこの説明は正しくないと考えます。
 
私は、科学は「特定のルールに基づいた結果の集合」を指す単語だと説明しようとしているんです。(特定のルールの重要性については後述)
そして、0に当たる所が「自然現象」です。
この0から演算法によって『真』を集めた物が、『科学』だと言う事です。
 


では、いただいたコメントでおかしいと感じる部分を一つずつ。
全体の構成の関係で、順番が前後します。

検証

さて、科学を科学としているのがなんなのかというのは
「検証可能性」だと言われます。
しかし、検証というのは、
「現在の科学的知識に基づいた検証」なので、
科学の正当性は循環してしまっているのです。
ご存じの通り、論理的に言ったら、循環論法は正しくないということになります。

違うと考えます。
検証と言うのは「その論に従えば、現象が再現するかどうか」「その論に従えば、現象が発生するかどうか」です。
現象の再現性は科学的知識に基づく必要はありません。実験者に科学的知識がある無し関係無く、『再現』するかどうかです。『人間が関係するかどうか』すら関係ありません。だからこそ、人間が『事が起きた後の現象を観測する事』しか出来ない場合でも、『現象』を説明出来ます。人間が介在しない例は宇宙物理学関係などが事例ですね。
「論(仮定と言い換えても良い)が現在までの科学的知見に基づく」事が『自然現象』を支配しているわけではありません。
科学と言うのは『自然現象を説明』した物ですから、どれだけ科学的知見に基づいても、『自然現象を説明』できなければそれは「科学」から外れます。
最終的に『論が正しい(真)か否か(偽)』を決めるのは『自然現象』と言う「科学的知見に基づかない物」を基準にしているから、トートロジーにはならないと。
そして、『自然現象』だからこそ『客観』が担保されると。

 

注意ですが、影響を与えないのは『論(仮説)』です。

  • 『水は情報を記憶する』と言う『論(仮説)』がある、だから、「水は情報を記憶する」

ではありません。これはトートロジーによる説明です。
こうではなく

  • 『水は情報を記憶する』

と言う現象が観測される事が、論立てよりも先にあるのです。
同様に、ホメオパスの言う『かき混ぜる人間の意思が』と言う部分ではありません。

  • 『かき混ぜる人間の意思が、レメディに影響を与える』と言う『論』がある、だから、『レメディには人間の意思が介在する』

わけではありません。

  • 『レメディには人間の意思が介在する』と言う『現象』が観測される

が論がある無しにかかわらず『観測出来る』と言う事です。


仮説

たとえば、「水は分子でできている」という仮説を考えます。
 
科学は、実験1,2,3...nとあったとき、
1-nを説明する仮説を考えます。
仮説「水は分子でできている」によって、
実験1,2,3...nが説明できると考えるのです。
うまく説明できたことで仮説が支持されます。
ただ、「全ては神が司っている」という仮説でも、
1,2,3...nを説明できます。
というように、論理で考えると、
「水は分子でできている」ということは言えないんです。
「水は分子でできている」は、
いろんな仮説の一つです。

ここにも問題があります。
1,2,3,...,n の実験、全てを説明出来る『仮説』が出来たとします。
この時、

  1. 仮説を正しいとした場合、実験 n+1,n+2,... も説明出来る
  2. 仮説を正しいとした場合、失敗する実験 m,m+1,m+2,... も説明出来る
  3. 仮説を正しいとした場合に、関係する過去に正しいとされた説が何故「正しい」とされたか説明出来る
  4. 現在、実験 l,l+1,l+2,...,l+k を『説明出来ない』状態である場合、仮説を否定した場合、やはり『説明出来ない』

と言うのも自動的に条件となります。
科学の論理と言うのは「現象の説明」だけでなく「論理による予測」も可能でなければなりません。
 
この現実の事例としては、一般相対性理論による空間のゆがみですね。
理論より前にある『観測事実』としては、水星の近日点移動。理論より後に『予測される観測事実』としては、太陽の向こう側の星の視点位置がずれると言うもの。
このように、科学として認められる理論と言うのは、様々な条件を持ちます。

 
これは、理論が「客観」である事が求められるためです。

論理の仮説

そもそも論理で仮説を用いる場合は、その使用に十分注意が必要です。
仮説は仮説でしかなく、『証明』された訳ではありません。
現在の科学の論理を否定した「仮説」を立てるのは自由ですが、その「仮説」に基づくとこの「結論」が導かれると言っても、それは『証明』ではない。
ましてや、特定の科学の論理を否定した「仮説」を立てた場合、関係するその他全ての「論理」を説明出来なければなりません。
 
現在の科学を否定する事は、全く問題ではありません。
科学の問題としても、論理の問題としてもです。
しかし『否定』する事によって生じる

  • 過去の説明
  • 未来の予測

のどちらもが矛盾無く、「自然を説明」できなければなりません。
 

例えば「水は情報を記憶する」と言う『現代科学を否定する論理』は、過去から未来において何を説明するのでしょうか?

論理体系

話が飛びますが、「論理」の説明なのでご了承ください。
 

論理の『真』となるルールは示しましたが、例えば「科学」においては『論理』だけではありません。
先に示しましたが『0となるのは「自然現象」による再現』と言うルールが『追加』されています。
さて、この『0』とは一体何でしょうか?
 

これを説明するには、数学の幾何学が良いサンプルとなります。
ここに5つのルールを提示します。

  1. 任意の一点から他の一点に対して直線を引くこと
  2. 有限の直線を連続的にまっすぐ延長すること
  3. 任意の中心と半径で円を描くこと
  4. すべての直角は互いに等しいこと
  5. 直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が180度未満である場合、その2直線が限りなく延長されたとき、内角の和が180度より小さい側で交わる。
ユークリッド原論 - Wikipedia

非常に有名な「ユークリッド幾何学」の「公理」です。
これを「真」として受け入れる事からユークリッド幾何学は始まります。
本来にはこの他にも「定義」や「公理」がありますが、有名なこの部分だけを取り出しました。
 
ところが、ここに疑問を持った人が居ます。
1〜4までは『自明』ですが、5も『自明』なのか?と。1〜4から導かれるものではないか?と。
この5とは「三角形の内角の和が180度」ですね。習うのは小学校でしたっけ。
 
この5に対する疑問からいろいろと調べられた結果、5は『自明』ではない事がわかりました。
三角形の内角の和が180度にならない場合があると。
それは「曲面」で三角形を作った場合です。この場合、凸面上では180度以上(地球上の極点(北極or南極)と、赤道上の2点を結んだ三角形など)、逆に凹面上では180度以下になります。
このように、公理が否定された事で新しく非ユークリッド幾何学と言う曲面の幾何学が出来ました。
(あるいは、非ユークリッド幾何学の特殊な条件が、ユークリッド幾何学とも言える)
 

さて、ここで何が言いたいかと言うと、『公理』の重要度です。
そこで考えてみましょう。
『科学』の『公理』とは何でしょうか?
それはたった一つです。

  • その論理によって自然を説明出来る事

科学の全てはここが原点です。あるいは、科学が哲学の時代まで遡って

  • 神はどのように自然を構築したのか

としても良い。全く同じ事です。
そして、この原点に基づき説明された「説」が『真』となり、『定理』となる。
だから、演算的に『科学的知見に基づく科学の説』が出てくるのでは。

公理系が違うと言う事による、論理体系の違い

ここで重要な事が一つ存在します。
それは『公理系が違うと、違う論理体系が築かれる』と言う事です。
先に挙げたユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学が良い事例ですが、定義や公理のほとんどを同じくするのに、たった一つ「三角形の内角の和は180度」を『真』とするか、『偽』とするかによって、全く違う論理体系になっているわけです。
 

では、ホメオパシーなどが言う「水は情報を記憶する」と言うのを『真』とした論理体系はどういうものなのでしょうか?
その前に、ホメオパシーとは『何を基準に』作成された論理だったでしょうか?

まとめ

だから私はinfobloga さんの考え方を支持出来ない。

  • 科学とは公理系(論理体系)を定めた物
  • 論理とは『真』『偽』を判定する技術

私はこのようにとらえているからです。