余談

段をかえて。

歌唱チェックについて

では「歌唱チェック」には「やりすぎ」と入れてます。
これは、ここは私個人の意見(主観)になるのですが、「国家」に対しての儀礼の礼節と言うのは「静寂」までが必須で、「歌唱」は不要と考えているからです。
理由1。音痴の問題。説明不要ですね。
理由2。歌詞記憶の問題。これも説明不要ですね。
理由3。「外国の国歌」に対する問題。覚えてる人どれだけ居るでしょう?
別に国歌が想像しにくければ、校歌でも十分です。甲子園なんかが良い例でしょう。
 
外国(確かイスラム圏じゃなかったかな? この前のニュース)での同様の「国歌を歌ってない!」ってのが吊り上げられた奴には、確かコメントとして「口パクしてりゃいいのに」ってのを書いています。
それと全く同様に、教師に対しても「余計な面倒抱えこむなら、口パクしてりゃいいのに」とは思います。
でもね。それはあくまでも個人に対しての「感想」なんですよ。
 
権力側から要請、或いは命令してよいのは、「静寂(式典の進行を妨げるな)」までと考えます。これ以上を求めるのは、個人の行動の自由を縛り「過ぎる」行為でしょう。たとえ、式典運営側の教師であってもです。
理由は先に述べたとおり。思想も主義主張も関係なく、「記憶」と「歌唱能力」は個々人によって差があるからです。起立したくないので両足を折ったという虚構新聞ネタではありませんが、「個々人によって明確に能力差がありえるもの(客観)」への依存度が高い、あるいは「ばらつきが高い」ものである以上、「歌唱」まで求めるのは酷です。
別に教師じゃないパターンだって考えられますよ。先の理由3に真っ向かぶる存在として、留学生なんか見事に当てはまりますよね。彼女ら彼らにとっての国歌とは「母国」のものであって、「日本」ではない。
生徒は別だというなら、外国人の外国語教師でもいいですよ。記憶・歌唱を強要しますか?
 
だから「国歌」に対しては、「静寂」までを「儀礼の礼節」と考えているわけです。
したがって、『たとえ日本人の教師であろうと』「歌唱」まで強制するのは、やりすぎだと判断しています。

台湾の献花

こちらでは、献花させないことについていろいろと。
これは「外交」が絡むことではありますが、どう考えてもこれは日本の株を落とす行為でしかないからです。
感謝の新聞広告で、「国家として」は台湾には出していないこともそうですが、中国に阿りすぎなんですよ。
台湾と言うのは、額も時期もかなり早いタイミングで援助を行ってくれました。
国家レベルでの行いだから「外交」が絡むのは確かに気にしなきゃならんところでしょうが、この「祭礼の式典」で考える事は、まずは「儀」と「礼節」でしょ。
もちろん、外交は献花一つで決まるものじゃないというのは言うとおりです。
しかし、中国の顔色を伺うばかりに終始して、援助をしてくれた人を蔑ろにするというのは「儀」も「礼節」も欠く行為です。
国家主権。日本と中国は建前であろうと、国家としては対等です。
鎮魂などの祭礼の場、「儀礼の場の礼節」は国家としての品格を問われる場ではないのでしょうか。
そんな場でさえも中国の顔色を伺うというのは、どう考えてもおかしいと考えます。
 
これが晩餐会のような外交政治の色が強いものであれば、台湾を袖にするのは「まだ」理解できますよ。その場合でも文句はありますがね。
しかし、先に書いた通りこんかいの式典は祭礼であり、鎮魂なのだから、『外交』を盾にして全てを説明するのは、どう考えても「品格」として問題だと考えます。