読んだことが無いねぇ

http://b.hatena.ne.jp/edo04/20120512#bookmark-83653093

edo04トンデモ, 南京事件 史料を読んだことがないやつが、何を言っているんだか。2012/05/12

少なくとも、ネット上で言説に出てるものは、賛成反対宗教含めて読んだ。
その上で書いてますが。
 
で、私の言いたいことは

  • ネット上の人数論争は「馬鹿らしい」
  • 【学問】を否定してはならない

この二点なんですがね。
 
でね。
資料だの史料だのいうけど
http://www.ibiblio.org/hyperwar/PTO/IMTFE/IMTFE-8.html
これに勝る「一次資料」にリンクしてる人は、誰もいませんでした。言っておくけどこれ「賛成派」がリンクしてた資料ね。
一応書いておくけど、これ、米国に保存されている、極東裁判(東京裁判)の判決文なので。
 
これ以外はどれもこれも『誰かが編纂した二次史料・三次史料』からの切り出し。
『切り出し』だとどのように『恣意的に編纂』されたかわからない。というかその二次史料を編纂した『誰か』が、そもそもその『史料』を恣意的に編纂した可能性すらある。
だからこそ、一次史料・一次資料へのリンクが必要なんだけど、これが全然見つからない。
こんな状況で「正しい」人数論争なんかできるわけがない。
 
ついでに言えば、2012-03-04 に対して?Bを付けてるが
http://d.hatena.ne.jp/vid/20120301
2012-03-01 の方に、私が何を問題にしてるか書いてるんですがね。
南京史料を読んだことが無い? そんなものは私の意見には全く反論になっていない。的外れもいいところだ。
【ネットで行われている】南京事変の人数論争が如何に【でたらめであるか】の立証なんだがな。
 
その上で、書いておくが。

1。学問というのは【常に】反論が許される。許され【なければならない】。

なぜならば、反論があることこそが、学問における正確性の担保だからだ。
歴史で言えば、「ピラミッドは奴隷に作らせた」というのは、今では否定されている。日本史もここ20年だけでも、かなり書き換わっている。
歴史【だから】書き換えてはならないというのは、明らかに間違った【考え方】である。 
これは理系の範囲であろうと文系の範囲であろうと変わり無い。
反論を許さない時点で、それは【学問】ではなく【宗教】だ。

2。30万人説の出所はどこか?

30万言説を突き詰めると、行き着くところは結局、南京裁判の判決であって、中国共産党がこれを採用となっている。
まずこの考え方がおかしい。
 
南京裁判の後、同じ資料(当時はまだ史料ではない)を用いて行われたのが、極東裁判である。
裁判として極東裁判の方が

  • 後で行われたものであるが故に、証拠の再確認がされている。
  • 南京裁判のように、当事者である中国だけが裁判官ではない。よって、より客観的に証拠の再確認がされている。

という裁判だ。
よって、南京裁判の30万人説を金科玉条にするのは、政治、司法を理由にしても問題ある行為だと考える。これは「裁判」のシステムから言える。
 
多くの国で裁判が二審制、三審制と複数の裁判を受ける権利があるのはなぜか?
裁判を複数回行う事で、より慎重に、より公正に、判断できるという考え方から、【裁判を複数回行う】制度をとっている。
 
複数制度をとる理由が以上のようなもので、現在多くの国が三審制であるの考えれば、「国民」であろうと「国家」であろうと、同じように【複数の裁判】の方がより公正な判断が出ていると考えるのが、自然であろう。
 
よって、裁判をもとに史観を取る場合、「極東裁判」を元に人数を出す方がより「正しい」と推定できる。
その極東裁判の一次史料が「20万人以上」説なんですけどね。
さらに、その極東裁判に中国も判事を出してる。
そうやって、より多くの国が参加した「極東裁判」の人数ではなく、南京裁判の人数こそが「正しい」とするのは、司法的な視点から見て、政治的に見ても、おかしな意見です。
言っておきますが、その時出された検察役からの資料は死者「26万人以上」。それが判決では「20万人以上」になっている以上、「20万以上だから30万以上が正しい!」というはおかしな論説です。せいぜいが26万以下でしょう。でなければ、判決文でわざわざ 26万人以下にする必要がありません。

3。『裁判』が正しく行われたか?

その「極東裁判」すら、『裁判』として問題がある。
一つは「正しく裁判が行われたのか」。
一つは「証拠資料の精査が行われたか」。
これについてはめんどくさいので、改めては書かない。
 
そもそも「裁判」は学問ではない。
【学問】は裁判を元にする必要はない。どころかその『裁判』が『正しく行われたのか』すら【学問】の対象だ。

4。30万人説以外の学者は?

そもそも30万人説ってのは中国が政治的目的をもって、南京裁判を元に固持してる説なわけで、科学的根拠が存在しない。
で、学者は30万人説を採ってる人が主流でしたっけ。

まとめ

で、資料を読んでないという指摘で、「何」を教えていただけるのでしょうか?
他人に対して「何を言ってるんだか」と『指摘』できるほど優秀な方なのですから、【間違いない一次史料】に触れる方なのですよね。是非とも、そも史料を読んでみたいので、ポインタを示していただけると幸いなのですが。
どのような【間違いない一次史料】を示されるのか、非常に楽しみです。
 
そもそも、資料読んでないだのなんだの言ってる人は多いが、資料を読めば「同じ答えになる」というのが間違いでしかない。
同じ資料を読んでも、解釈が分かれることは普通に起こる。だからこそ、解釈の妥当性を論じなければならないのに、「解釈の妥当性」ではなく「資料を読んでない」とか、人格に対する誹謗中傷(歴史修正主義者というレッテル張りもこれだ)で「反論した気」になっているというのが多い。これは【学問】ではない。
 
したがって、「正しく【学問】がなされた答えか」が重要となる。私は常にそこを疑問視しており、ネット上の南京事変の言説が【論の体裁が学問と言えるものかどうか】に対して【論】を重ねているが、誰ひとりとして【論の体裁は十分学問と言える】という反論をしてこない。
ほとんどの場合が、30万を否定(日本政府の態度も30万じゃないのにねぇ)したってだけでの、私に対しての人格攻撃だ。こういう行為こそが「ヘイトクライム」であり、「レイシストの態度」であることは言うまでもない。
 
さて。
私の言論に対して「トンデモ」というからには、それが「トンデモ」であることをきちんと「論証」できますよね。
トンデモ本」を見てわかるように、「トンデモ」というには(というか、何に対してでもそうだが)、それが「おかしい」というだけきちんと論拠が示されている。
どういう「資料」を基に私が「トンデモ」なのか、【論】を示していただかないと、その「トンデモ」という言説の正しさを誰も検証できませんしね。
 
いいでしょうか。
再度書いておきますが、私が問題視しているのは、「30万」というのは【学問】として問題があるという事です。
反論は30万というのが【学問】として正しい手続きのもとで出されている答えだ、という証明です。そのために、【間違いない一次史料】を重ねることが必要なわけですね。
【政治】を持ち出すのであれば、『東京裁判での20万以上』が戦勝国による『裁判結果』であるのに、なぜこれが『間違い』であり、中国主導の『南京裁判』が正しいのかの論ですね。
もっとも、裁判も政治も【学問】を行う事の否定事由にしてはならない。よって【政治】の話でもっても、【学問】の「30万がおかしい」という言説への反論としては、反論の主体にはなりませんが。
 
いうまでもないことだけど、これに答える『必要』は全くありません。
しかし論拠も示さずに、他人に対して「トンデモ」と言い、自身の論拠を示さずにただ言い放つだけの人は、人間としてどうなのでしょうか?