ネットで見た

「ネットで見た」。これを言うと普通はネットでは笑いものになる。
私は「ネットで見てない」と言ってる。だから『議論』にすらならんと言う主張。
 
唯一あった「ネットでも見れる」資料が「極東裁判判決文」。被害者20万以上の「26万主張から人数が減っている」判決。
政治を理由にこれにコミットするなら、まだ分かるんだがな。
 
極東裁判判決文は、米国のサイトで原文まま。誰でも確認可能だから『ネットでの』議論にこれを論拠として使うのは、『誰でも』チェック可能だから問題とは思わない。だからこそ、そこにある数字を出すために、『正しく裁判が行われたのか』が問題となる。ところが、極東裁判は『正しく裁判が行われた』と言う話の部分で、いろいろと怪しくなる。
 
 
もう一つが、賛否のサイトほぼ同じ数字を掲げてる紅卍会。
城外の死者はほぼ男性のみ、総計4万ちょっと。その詳細も含めて、賛否どちらも概ね同じような内容を持ち出してきてる。
賛否どちらもから出しているからこそ、原典に当たれなくても、それなりの信用は出来ると判断できる。
 
これら以外は『この資料によれば』『この資料によれば』を各自てんで好き勝手に引用してるため、『恣意的な引用が為されていない』と言う信用をおけない。
原典を「ネットで見れない」と言う主張。
 
 
ここから先の『ネットのやり取り』は「学問の体」を為せない。
だからやる気ねーんだよ。てんで好き勝手な資料を引いても、それは「共通の前提」にゃならん。
 
30万を押し付ける気なら
・原典を確かに捏造が無いと分かる形で、ネットでも、誰からも確認可能
最低限、これを満たしてからにしてくれ。引用もトリミングも一切無しで、信用可能なサイトからでな。賛成派のサイトも、否定派のサイトも、その時点で色眼鏡だ。
 
普通、そういうレベルに触れるのは学者先生だけなんだよね。物理的に。
で、その学者先生が喧々囂々やってる話に、真っ当に資料も触れず、解説本などから自説補強で取ってきてるネットの話なんざ、信用度が低いのは当然なわけで。
 
「否定派のネットで見た」が『信頼が置けない』意味で成り立つんだから、全く同じで「肯定派の資料をネットで見た」も同様に『信頼が置けない』意味で成り立つ。
「否定派は成り立つ」が「肯定派は成り立たない」と言うのは、明確なダブルスタンダードだ。『ネットで見た、は成り立たない』と言う筋が通っていない。
 
「否定派だから成り立たない」と言うのは、学問を馬鹿にした話だ。
学問は『常に』反論が可能でなければならない。反論こそが、学問を学問足らしめる、唯一のシステムだからだ。
「否定派だから成り立たない」を「信仰する」のであれば、それは学問ではなく「宗教」だ。私は宗教に組する気は無い。