あ〜、そういうこと

なんかブクマが増えた理由確認。
http://d.hatena.ne.jp/edo04/20120527/1338114279
上のはこれを想定して書いてはいません。
 
コメでも反応書いたが、改めて。

史料・資料

史料・資料の定義が弱いというのでの整理は理解。こちらが間違い、でOKです。
 
で、一次〜の話。
ネットワークでやってるものは、その論拠として持ち出しているものは、大概が「誰かの解説本からの孫引き」か、「誰かのURL」になる。
URLは論外としても、「誰かの解説本」などになると、結局個々人が史料を確認するしかなく。また「捏造していない」の確認が困難なのは言うまでもなく。
両極論をあえて出すが、30万派にしても、0派にしても、結局その「確認の困難さ」が残る以上、『ネットでの議論』は非常に難しいといわざる得ない。
だから、確認コストが高すぎて議論になんないというのが、私見
 
でね。
私が否定的なのは、『史料集』の存在じゃない。
『史料集からの切り出しが確かに改変していない』と言う信用が置けないということ。
それは、肯定派にしても、否定派にしても、答えが決まっているところからサイトを始めているから。
『史料』と言う『原典』に当たる「困難さ」の問題。
 
全く話しは変わるけど、過去に私が一度やったものとしては、「中古ゲームの販売は是か否か」と言うのがある。
私は「中古販売に否定」だった。論をそこから組み立てた。誰しもが簡単にアクセスできる中立の資料を集めて考えた結果、「中古販売は是である」と言う答えにたどり着いた。
 
このように、史料・資料を反対の視点から初めて精査した結果、こうなった……と言うサイトは見たことが無い。
となると、最初から自分に有利な部分だけ切り出した可能性をぬぐえない。最低限、中立の立場からだが、そんなサイトは……
こういう状況では、『ネット上では』真っ当な史料・資料と言うのはほぼアクセス不能と判断するしかない。
 
で、いろいろと探した結果たどり着けた唯一のが、極東裁判の判決文。
これは、少なくとも殺害記録などを元に判決を出していると考えられる以上、一定水準以上の信用度は置けると推察できる。また、米国のサイトで信用元としても十分。
これが「二次」である事は重々承知だが、「ネット上でたどり着ける原典」の意味で、私はこれを「一次」と書いた。
「正しく裁判が行われたのか」については、後述。
 
もう一つが、上でも書いたけど、「紅卍会の埋葬資料」。これについてのネットにある情報は、賛否双方の数字が概ね同じである事(4万ちょっと)、埋葬が城外はほぼ男性である事、などはおそらく資料として信頼度は高いと。(反対視点からの資料の精査が行われているため)
 
客観の担保の困難さの問題です。
*だから*ネットで本格的な人数論争なんぞに手を出す気は無いと書いてる。
『私が』個人的に資料を用意して論説立てても、『私以外が』その資料にアクセスすることに一定以上の困難さが伴うのであれば、それは『ネット上で』やっても強固な論として展開できないから。客観の担保が容易でない。

「事変」「事件」

殺人だけでなく傷害・強姦・強盗(略奪)なども多数発生しており、

このあたり、「多数発生」と言うのが先に書いたような「ネット上から、誰しもが確認できる、信頼度の高い、資料」としては一定以上の疑問が残っている。
このあたりを殊更に持ち出してるの、賛成派だけなんだよね。日本は酷い、と言う*前提*で書いてるようなサイトばかりだと、無謬で信じ込むには。
なので、「色眼鏡ではない」事を『確認』出来ないため、判断できない。
 
したがって、「事変」「事件」の語の設定については、私は「南京事変と言うべき」の『べき』を取り下げるという形での対処まで。「南京事件だ」に賛同までは、まだ。

「学問」「30万」

で、「学問」。
南京事件の「否定」ってのは、『戦争も何も起きていない』と言う事を指すのであれば、それは落ちて当然でしょ。私だって「馬鹿か」という。
 
一方。

 ネットで否定論を攻撃する人は多くいるが、30万人説に固執している人はいない。ほとんどの肯定派が述べているのは、「完全に否定できるほどの史料を持ち合わせていないので、30万人説も成り立つ可能性はなくはない」ということである。
 ネット上で、30万人説に固執している肯定派が全くいないとまでは言わないが、いたとしても、ほんのわずかであろう。いるのは、学術的に30万人説を100%は否定できないという人々である。

私も別に「完全否定」をしてるわけじゃないんだけどね。戦争による殺害があったであろう事は、想像に難くない。
そういう事を書いてるのに、30万以下と言うだけで、ものすごい人格攻撃が来ますけど。
30万人説に対して固執している肯定派が「ほんのわずか」とは到底。
 
で。
私がメインで問題視してるのは、『ネット上』での『口論』は、「30万以外」を書いた場合、それはそれはすばらしいまでの「人格否定」が来ること。これについて。
「小前提」「大前提」「結論」の前提を攻めるでなく、論理的な部分を攻めるでなく、「30万以下ではないかと書くとは何事か!」と言う口調で『人格』を貶める。
これ、立派な誹謗中傷だよね。
一番の問題と思ってる部分はここ。
 
ついでに言えば「歴史修正主義者」と言うレッテル張りも同様。
レッテルを貼って、「あいつは狂った奴だ」と分類することで「思考停止」する。
こういったのって、軍国主義の洗脳と全く同じことだろうと。
だから「学問」と「宗教」を持ち出してる。
 
で、査読云々で

 すなわち、歴史学者は、南京事件の場合の死者数が数万人であろうと、30万人であろうと、実際の研究には大きな影響を与えることは少ないと考えているのである。

であるなら、30万以下の死者数を書いたところで、「人格攻撃」する必要は無いよね。
 
そういう人格攻撃があるのは、言論にとって問題ないのでしょうかね?
私のメインはその「人格攻撃」への揶揄だから、「正直、人数を精査する気は無い」となる。先に書いた通り、ネットで誰にも「簡単に」見える「これ」と言う数字が出せる史料なんて無いし。

極東裁判の審理

事後法で裁く。この一点でもってしても、真っ当に「裁判が行われた」とは言えんでしょう。
となると、本当に「正しく裁判が行われたのか」は疑念が残る。
 
とは言え、これを持ち出しているのはネットでの賛成派の「30万以下はありえない!」に対して、「極東裁判じゃ20万言ってるぞ」の意味でしかないので、深く突っ込む気は無い。
この極東裁判の「20万人」に対して「間違っている!」と真っ向突っかかっていくネット30万絶対派はどれくらいなのでしょうかねって事です。