論理の正しさと客観性

もう少し重ねておきます。
先に書いた論理学の「正しさ」とは何か、と言う話です。
 

確かに、論理学での「正しさ」を求めるためには、いくつかのルールが事前に存在してしまいます。
三段論法であっても細かく分類され、恒真(導かれる結論は正しい)となるための前提条件などが研究されています。
三段論法 - Wikipedia
まず第一に、このルールを共有しないことには、そもそも『論理的に』と言う時点で話になりません。
 

次に、「正しさ」の基準です。
ここに関して、医学も化学も物理学も、そしてホメオパシーも、同じものを「正しさ」としています。
それは『自然』です。自然が絶対の答えとなっているのです。
人間の体に対して、何か手を加えた場合、人間の体に影響が出る、と言う部分は、どちらにおいても同じ考えです。
ですので、これがお互いに共有している「正しい」の認識です。
 

そして、この正しさと言うのは『自然』が相手です。ここに人間の意志は介在しません。人間がいようがいまいが、自然は勝手に(しかし自然がもつ法則に沿って)動きます。
『自然は勝手に動く』と言うところが、『科学の言う客観』の根底にあります。
もちろんここには若干の補足条件があります。それは、『自然ではない』状態に『人の手で書き換えた』状態が介在し得ることです。
しかし、一度『自然ではない』状態にした後に起こる現象も又、『自然のもつ法則に沿って』動きます。
全ての「科学」はここを基準に論理を構築しています。そして「答えは自然」であるからこそ、科学の客観は担保されているのです。