突っ込み点を間違えていますか……

形式論理における論理体系とそれに基づく形式理論 - 発声練習

まず、「科学が論理(形式論理)では示されない。」というのは何を議論しているのかあいまい。議論したいのは、推論手法に関する話の様子。具体的には、演繹ならば、前提がすべて真のときには結論も真が保たれるが、帰納(あるいは帰納や仮説生成)の場合は、仮に前提が真であったとしても結論は必ず真であるとはかぎらないという話。はっきりとこのように書いたほうが読んでいる人にわかりやすい。
一方で、愚者の戯文:科学と論理で述べているのは、形式理論の作り方の話。でも、用語としては論理体系と形式理論がまざっている。まず、論理体系レベルでさまざまな論理体系の構築が可能であり、さらに、その論理体系に基づく形式理論においても、リンク先エントリーに書かれているように前提となる経験的真理の選び方によって、さまざまな形式理論を構築できる。

形式論理における論理体系とそれに基づく形式理論 - 発声練習

あー、ごめんなさい。正直に言います。
『混同』具合を自分で認識できていません orz。
何度か推敲してるので、本気で認識できてないと考えます。
 

物事に置いて意思疎通(議論と言い換えるのも可能)を図るときに、建設的に進めるためには

  1. 語の定義
  2. 『真』『偽』判定のためのルール(論理学)
  3. 公理(真、あるいは偽の種)

が必要だと考えています。
で、

  1. 池田さんが言いたいのがこれよりも先の話であり
  2. その中で『科学の論理体系』での限界を語っている

だけの内容であれば、確かにそこには限界がある事を否定できません。
それは論理学な「不完全性定理」などからも。(分野外)
 
ただ、そういう風には受け取っていなかったので、例示を織り込みながらの突っ込みのつもりでした。
 
でも、『仮定』の捉え方はやっぱりおかしいと思ってます。『真であると証明された』後は、その論理は「定理」となるわけで、『仮定だから』で先に進むと言うのは正しい考え方なのか?とか。
帰納法背理法などで仮定を用いますが、それらにおいての結論の真偽の判定すら無しに先に進めているように見えるんですよね。

もう一つ

infobloga さん 2010/08/11 14:22
(中略)
ただ、愚者の戯文さんの問題は、
論理体系Lのもとになっているのが経験的真理であるということに意識的ではないこと。
それで話が噛み合ってないのだと思っています。
 
自分は、リンク先の2節目で、経験的真理の根拠をたどっていくと、
結局、トートロジーになるってことを言っています。
「当たり前」のことですがね。

http://d.hatena.ne.jp/next49/20100810/p3#c1281504161

形式論理的には目の前のコップの存在も証明できないのです。
科学は、「だって、コップはあるじゃないか」っていきなりいきますが、
それは「形式論理では示せない」って言うのが自分の指摘です。

http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-7e44.html

『観測の客観性の担保すら存在しない』のであれば、『私』とは一体何なのでしょうかね?
ここを論じるのは『哲学』であって、近代科学の分野なんてとっくに外れてると考えるのですが。近代科学じゃ「私以外」や「共通体験」を対象にしてないでしょう。
そりゃ『哲学』を論じれば、そもそも『科学とは仮説に過ぎない』でしょうけどね。というか、全ての学問がと言うか。
『哲学』を持ち出して「月は本当にそこにあるのか」と『科学は仮定である』といわれても、それは「議論の前提が違う」としか言い様がありません。
(似た物に量子力学でもって『月は本当にそこにあるのか』と言うのがありますが、こりゃ数学の確率論です)
 

まぁ『認知』を否定してる時点で、かなりの手戻りですよ。

  • 『思考』とは
  • 『何か』とは
  • 『私』とは何か
  • 『私以外』とは何か
  • 『認知』とは何か
  • 『あなた』とは何か
  • 『私』と『あなた』とは何か
    • 『共通体験』問題
    • 『共通認識』問題
    • 『意思疎通』問題

こういった事から論じないといけないのですか?
正直、自己と認知に通じる哲学は全くやってないので、手に余るどころなんですが。
#大学でやったような記憶はあるが、内容覚えてなくてググル手がかりすら思い出せない