何を問題にしているのか理解していない

ID コールに価値は無いからやらないんだけど、いつまでも送ってくる。
私が何を問題にしてるか、いつまで曲解続けるの?
こういう風に人の意見を聞かないのが見えてるからこそ、メタにしたんだがな。

http://b.hatena.ne.jp/Gl17/20120301#bookmark-82969857

最初からメタブクマしかしねえって要するに「同じ土俵に立つと決定的に負けるから」て意味だよね。/ vid 事件の有無から曖昧な痴漢と、大量殺害が厳然とあり、かつ確認済み事実を無視する奴の話を同列にすんなよ。

一度書いてるが、再度書いておく。
最初からメタブクマにしてるのは、私の議題を全く理解していない口論を仕掛けられてもうるさいだけから。 
その上で書くが、「決定的に負ける」と言うのは「何を指す」のか? そもそも「勝ち負け」とは何か? 一体何を基準に「勝ち負け」と言っているのか?
勝ち負けの話にすり替えは2ch詭弁のガイドライン13に書かれてる事ですね。
 
それとも一連のが「ディベート」になるとでも? 全然ディベートが成立するためのルールに則っていないから、これはディベートではない。(断定)
議論ですらない。議論は「意見を述べて論じあう」事だが、否定派も虐殺派も「意見を述べる」だけで「論じる」になっていない。議論ですらない。特に虐殺派は「意見を押しつける」だけだ。
結局、口論、口喧嘩、罵り合いと言うのがふさわしいものしか見ない。
違うと言うなら、私の突っ込みの主題、「学問」と言う視点での「反論」をしろ(命令形)。
ノイズの残す気は全く無いので、反「論」となっていないものは容赦なく削除する。ディベート時に出せるレベルでの「論」を基準とする。ルールは明示した。
 
次。

事件の有無から曖昧な痴漢と、大量殺害が厳然とあり、かつ確認済み事実を無視する奴の話を同列にすんなよ。

この一文は南京「大虐殺」問題の流れを全く理解していない証拠にしかならん。
「大量」「殺害」『だから』問題だと言うなら、戦争による兵隊の「大量」「殺害」はお互いの事であって、問題にする事がおかしい。
 
これを『大量』「虐殺」の意味で言ったとすると、これでもこの一文に問題がある事に変わりはない。

  1. 『確認済みの事実』と言うが、『学問』であれば常に「事実を検証する」事に問題は無い。『問題としてはならない』。どれだけ『正しい』としてある事でも、『常に』反論を許すのが『学問』だ。反論を許さないのは「宗教」の態度だ。
  2. 南京裁判、極東裁判、どちらを持ち出しても、『正しい手続きによる裁判での、証拠の精査が行われた』とする「事実が無い」。どっちも被害者数の「適当な数での鵜呑み」であって、この時点で「確認済みの事実」とするのは『学問』として大きく問題なのは言うまでもない。SF条約を持ち出しても、SF条約と極東裁判をセットで持ち出しても、それは『政治』の問題であって、『学問』を行う事を否定してはならないし、ましてや『学問』の視点を縛ってはならない。
  3. その上で、『学問』として証拠を精査する時に「最初から答えを決めていてはならない」。色眼鏡がどういう問題を作り出すかは、数々の捏造問題や、検察取り調べ問題などが示す通りだ。

以上3点が『学問』としての態度の問題。
 
そして私の?Bコメントはこれら3点に対してだが、ID コールを飛ばしてくる人は、誰もこの主張に対して正しく「反論」してこない。
それがわかっているからメタに書いたわけだが、結局メタでもこういう色眼鏡問題の指摘である事を理解せず、延々と的外れの ID コールを送って来ている。
「30万大虐殺」の「押しつけ」と言うのは、それだけで「色眼鏡の証拠」なんだがな。 
加害者? 被害者? それは「事実」を調べる上で、全く価値が無い(断定)。
加害者が捏造すると言うのと全く同じく、被害者だって捏造する。
だからこそ、視点がどちらかに偏っていないかを『常に』問わなきゃならんのだがな。

正直めんどくせぇ

南京「大虐殺」関連の?Bをいろいろと書いてるが、「感情的反発」による ID コールがうるさいことこの上ない。
論立てじゃないでぎゃんぎゃんわめいても、なんの価値もない。
ついでに、私の人格への誹謗中傷なんかも平気であるんだが、それは「論」ではない。
 
で、そこで投げてきた数々について、一括で書いとく。
ID コールしないのは「投げてきた人間」に対しては何の感情も持っていないため。投げられた「意見」にだけ価値を見ており、「人」に興味も価値も見出していないので。異口同音なんだよね。

「誰か」の殺害行為について

まず最初に書いておくが、私は現場で「なんらかの殺害行為」があったことは否定しない。

  1. 事は「戦争」であって、「軍兵」「便衣兵」などとの戦闘行為と殺害は「当然」発生する
  2. 特に対便衣兵だが、その戦闘において民間人を「巻き込む」「誤認する」などでの殺害が発生することも、「当然」視野に入れなければならない(この前にもアメリカがやってるしね)

だが、これらは精々が「南京事変」と呼ぶべき事象であって、「大虐殺」と呼ばれるいわれのものかと言うと、疑問が残る。

虐殺数30万

虐殺数が30万と言うのは、中国共産党が言っている「根拠が非常に薄い」代物。
その根拠を南京裁判の証拠としているが、南京裁判では「被害者数」についてきちん精査されていないという「事実」を忘れてはならない。
ちなみに、極東裁判でも同じく「個々の」証拠の精査はなされていない。
これらは、被害状況の調査などを中国で行う必要があったが、それが「当時」「第三者」によって「十分に」行われていないことからも理解しなきゃならん事なんだが。
 
ついで。中国政府と違い、中国の学者の中にも30万に疑問を抱いている人は存在する。
http://megalodon.jp/2008-0709-0042-42/www.nippon-foundation.or.jp/inter/topics_dtl/070131.html
 
もうひとつ。
極東裁判では、虐殺数は「二十万以上の人々」としている。
内訳は「カウント分が15万5千」。これに加えて「川に流されたなどで遺体が見つからなかったものがあるため」としている。
http://www.ibiblio.org/hyperwar/PTO/IMTFE/IMTFE-8.html

Estimates made at a later date indicate that the total number of civilians and prisoners of war murdered in Nanking and its vicinity during the first six weeks of the Japanese occupation was over 200,000. That these estimates are not exaggerated is borne out by the fact that burial societies and other organizations counted more than 155,000 bodies which they buried. They also reported that most of those were bound with their hands tied behind their backs. These figures do not take into account those persons whose bodies were destroyed by burning, or by throwing them into the Yangtze River, or otherwise disposed of by Japanese.

これを何故か「虐殺は20万以上で、以上としているのは川に流されて見つからなかったから。だから30万が正しい」と解説している大虐殺派が居る。

日本政府の考え方


ちなみに日本政府の考え方だが

京大虐殺に関する事実関係については意見の食い違いがみられるが、旧日本軍が南京城に侵入してから、非戦闘員に対して強奪と殺戮を行った事実を否定することはできない

であって、人数の30万を丸呑みしているわけではない。これは過去から変わらない。
私もこれと同じ立場であって、「南京での非戦闘員の殺害行為が無かった」との主張は行っていない。

学問と言う物

政治的には、極東裁判で「虐殺行為があった」と言うのは受け入れなければならない。事実、これを日本政府は受け入れている。
しかし「学問」はそこに縛られる必要は無い。『常に』学問は反論を許すものであり、『反論が許されなければならない』。反論を許さなければ、それは『学問』ではない。よって、極論を言えば「虐殺行為は無かった」と言う研究であろうと、『研究発表する行為を止めてはならない』。
相対性理論への反論だって許される行為なんだがな。
 
『学問』を『政治』で縛るのも同じ愚。
そして『学問』を「感情」でなじるのも同じ愚。
 
感情が許さないだろうが、被害者と加害者だろうが、『反論』を認めなくなった時点で、それは『歴史学』ではなく「大虐殺と言うカルト宗教」に堕する。
中国共産党がこのカルト宗教を「国是」としてるのと同じに。
 
その上で何度も重ねるが、少なくともある程度の規模での「殺害行為」があったことは数々の証拠を見るに『事実』と推定するに足る以上、『虐殺行為が無かった』と言う反論は、論拠に証拠能力が無い。
私的意見だが、被害者数1万人以下と言うのも、ちょっと考えにくい。(注:兵士、民間人の区別無しでの1万人以下)

ホメオパシーに同じように反論できるのか、ってのがどっかにあったな

馬鹿げたもので反論になっていない。
ホメオパシーと言うのは、「統計数学」によって「人間の主観」をいくらでも切り取ることが出来る。そういった人間の主観を切り取った末の答えが「薬効効果が無い」と言うもの。これが医学の治験による答え。
また、化学的にはアボガドロ数などによる見地から、「1分子も残っていない」事から「影響が出ない」事を証明できる。
最近では苦し紛れに「量子力学で波動がうつってるんだ!」と言うのもあるわけだが、そもそもそれは「量子力学」ではない、で終了。
このように、ホメオパシーは「人間主観が存在しない」レベルでの反論可能。
これが「理系」の学問の特長。「観測者」に依存しない「結果」が導き出される。
 
今回の「歴史学」と言うのは、歴史的な証拠の精査と積み重ねで行う物。「再現不可能」な物。
よって、「今ある証拠」を見て回るしかないわけだが、そこで「多数の証拠の間での矛盾が無いかどうか」が重要になる。また、「論者の主観」が入っていないかどうかとか、いろいろと。
だけど、先に書いたように「再現不可能」な事から、どうしても「主観」が抜け切らない。
よって、どこまで「人間の主観」を切り取った論を重ねることが出来るかが重要になる。
これは常に「観測者」に依存せざる得ない部分があるために起こる「文系」の学問の特長。
 
裁判の例えを出すが、「人間に人間を裁けるのか」と言うのがある。
それと同じこと。「人間が歴史を知ることが出来るのか」。
そのために人はいろいろな知恵を絞ってきたわけだが、何故か南京「大虐殺」論争になると感情で否定派をなじる人々が大挙して現れるんだな、これが。不思議でならない。

慈善団体の存在

これに疑問を投げたら、「何十年も残るわけ?」みたいなことを返された。
『精査する人間が現れなければ』何十年でも残るという事実は、枚挙に暇が無いはずなんだが? 歴史の教科書での日本の戦国時代辺りの肖像画の人物も、結構書き換わってる事実があるくらいに。コンピュータプログラムでも、かなり初期の kernel のバグが、今頃発見された〜ってネタが何かにあったな。
その上、「大虐殺派」がそういったことに反論なけりゃ、いくらでも残りますね。「否定派が何時までも生き残っている」と言うのと鏡合わせで全く同じ構造です。
 
本題に戻る。
埋葬記録の証拠として主に出てきている慈善団体に「紅卍会」と「崇善堂」がある。
このうち、「紅卍会」の活動記録が4万体あまりの埋葬、「崇善堂」が11万体の報告となっている。
で、「紅卍会」については他の記録とつき合わせても、ある程度の信憑性は取れるようだ。(極東裁判では疑惑が突きつけられている)
しかし「崇善堂」については、「中国共産党の提示する」当時の活動記録をみても、信憑性が非常に薄いと来ている。おまけに、活動記録自体がかなり曖昧に書かれている。
当時に団体は確かに存在しているが、その活動記録にはかなり疑念が残る団体なんだが?

「値切る」?

で、不思議なのが「30万を値切るのは許さん」、またはこれに近似した物言い。
先にも書いたがそもそも「30万」と言うのは中国共産党の言い分で、これに対しての証拠と言うのは論拠が薄い事は先に述べた。
「今は証拠が揃っている」と言ってくるのだろうが、そもそも「30万」と言う「答え」を「前提」にして「証拠を探す」と言うのは、『論理学』としておかしい。
「被害者数」と言うのは、「証拠」から「演繹」の結果として出すものであって、「30万と言う答えに合うように被害者数を示す証拠を集める」と言うのは、本末転倒と言うより他無い。
そして学問としても「常に」0から出発しなければならない代物。
 
その上で、日本の「大虐殺派の学者」は一番多いものでも確か「20万」そこそこじゃなかったっけな?
これに対して文句は無いの?
 
ちなみに、中国共産党は先に書いた通り「国是」が「30万」なので、これ以下は全て根拠無く否定している。
ネットで「30万はおかしい」に対しての反応って、ほとんどがこの中国共産党の態度と全く同じなんだよね。

「盛る」1

で、私がいくつかで書いてる「盛る」に対しても。2ch 言論を見てだろうといってるんだが。
上には中国共産党が30万と言っている、としているが、詳細に言えば中国共産党は30万以上が正しい。
南京裁判で出てきた(証拠の精査無しの数字の合計)26万に、数万人は証拠として出てないはずだから30万以上の被害者がいた、としている。
一応、南京裁判時から40万説、50万説ってのもあるはあったけどね。
 
そして実際に、「新しい研究」とやらで『侵華日軍南京大屠殺史研究会』が『1万人の犠牲者名簿を追加』を 2011/05/02 に行っているようだが。
これは実際に「盛っている」事実ではないの?

「盛る」2

 
で、「盛る」についてもう一つ。
南京裁判どころか極東裁判当時の被害者数の精査が慎重に行われては居ないというのが、歴史上の事実だ。これは裁判記録などからも明らか。
その上で、殺害数としての報告事例を見てみると

「上新河一帯の大虐殺」として報告された数字。

  • 中華民国:南京地方法院の調査報告「敵人罪行調査報告」の犠牲者数 2,873人
  • 中華人民共和国:政治協商会議・南京市委員会の「報告」の犠牲者数28,730人

国の主体が変わっただけで、被害者数10倍になるんですね。

出典:南京虐殺4 中国の主張「30万人大虐殺」 ( 脱・洗脳史講座 )

まぁ、これについてはまだ原典に当たれてないのですが。
しかし被害者の数字について、そもそもここは盛大かつ詳細な「検証」が必要な部分であるのに、裁判でもそれが全く行われていないことから、どれもこれも疑念が高いものばかりなわけです。
なんで「盛っていない」事が前提になるの?
確か、埋葬に関しては日本軍側からもお金が出てたみたいだけど、「お金目当てで盛る事は無かった」となんで言えるの?

心理問題

ちょっと視点を変えます。
どの資料を見るにしても、2つの問題があります。

  • 資料自体の証拠能力
    • 「伝聞」の場合は、その「伝聞者」の証言内容の正しさも問題となる
  • 物事を自分の「有利」に見せようとする心理

どの資料を見るにしても、これらのことを忘れてはならず、精査しなければならない。
大本営発表」と同じように、なんらかの利があれば「被害者数の増加」だって行うことは想像に難くない。なんで、「増加は絶対に行われていない」事が「絶対の前提」となるのか?

裁判と言うもの

でまぁ、南京裁判はともかく、極東裁判が『真っ当な裁判形態』であったなら、本来、そういう「証拠の精査」が行われていたのであろうが、実際にはそういう「証拠の精査」が行われているとは考えられないわけで。
そもそも、第二次世界大戦後でのあれこれって、事後法の色が強く、「正しく法が行われた」とは言えない事実まである。
結論としての「二十万以上である」も、南京裁判の30万以上からの「被害者数10万少なく見積もった理由」を明確に述べていない。

まとめ

つまりは、被害者だろうが加害者だろうが「値切る」だろうが「盛る」だろうが、そういった『偏った視線』の『全て』が、証拠を吟味する上で『問題だ』と言う突っ込みを?Bでは行ってるんだけどな。
「加害者と被害者を同じに見てる」のも当然。当たり前。常識。「加害者の偽証」を疑うのと同じように「被害者の偽証」も疑うのは、『証拠の論拠』を調べる上で当然の態度。この視点の偏りが問題なのは、痴漢冤罪やら、検察取調べやらで、何度もニュースに上がっている。
「被害者の証言を鵜呑み」「加害者の証言は都合の良いものは鵜呑み」「加害者の証言の都合の悪いものは却下」。これは学問でも裁判でも問題な態度なのはいうまでも無い。
「値切る」と言うのは言わずもがな、そもそも答えが分からない物に対して『証拠の精査』を積み重ねていくものなわけで。
「30万」を『確定事実』とする論拠がそもそも存在しない。

最後に

一応書いておく。
 
証拠資料として一番客観性の高いものは「スマイス調査団」による統計調査でしょう。これによると、城内での『市民の』殺害数は死者2400人、行方不明者4200人。合計6600人。
実際には調査「しきれない」部分や「紅卍会」の活動記録の4万人、他の資料なども考えると、城内外「中国共産党の言う範囲」で考えれば、『殺害数(not虐殺数)』は10万を越えない程度と言うのが、一番信憑性が出てくると考えています。これは私自身の私見
ちなみに「虐殺数」としないのは、城外での戦闘行為では女子供の被害者がほとんど見られないこと(紅卍会の記録)から、『通常の戦闘行為』での死者数であろう想定や(つまり、問題にならない戦闘行動での戦死者が混じっていること)、『捕虜の殺害などの扱い』について「虐殺に含めるかどうか」などに論争が起きていることなどから。
 
で。
結局、これ以上のことについては、「確定」とするだけの論拠はどこからも提示されず、「感情による口論」しか見ないために、「人数論争」についてのコメントなどは全て削除します。
証拠の重み付けの違いについても同様。今までと同じなら、やるだけ「無駄」です。
 
もうひとつ。
私のが虐殺数への疑惑を中心にしたものだから、「否定派」系のリンクになってますが、資料の読み漁りは「虐殺派」のものも『当然』読んでます。
その上で、論拠として一番主観が取り除かれている「のではないかと私の主観で考えている物」をピックアップした結果です。

?Bへの反応

反応したい追加が来れば順次追記していきます。

md2tak さん

複写開始ボタンだけリモートで押せるようにしたらどうなるんだろう?(すでにそういう議論はあると思うが) 2011/12/28

http://b.hatena.ne.jp/md2tak/20111228#bookmark-73827405

これは今日より、むしろ23日の日記側の話になりますが(解釈論の話なので)、おそらくアウトと裁判で判断されると考えられます。

ロクラク裁判が知財高裁では「違法ではない」と判決が出ましたが、最高裁で「違法である。差し戻し」となっています。
カラオケ法理がそうなのですが、「複製行為の条件を整える主体」になった場合には、そのサービスは違法、と言うのが現在の日本の司法の解釈と言えます。

ロクラク裁判での高裁での判決理由ですが、「個人が私的利用のために行う物なので、【不当な】利益侵害とはいえない」と判断していました。ネットで自炊代行を問題ないと言ってるのは、概ねこの考え方です。
しかし最高裁はこれを「放送電波をアンテナで受信して、機器に入力する部分で、電波を【複製】しているため、複製権侵害の主体と解釈するのが妥当」として、高裁を却下しました。
電波が入らなきゃ、ロクラクでの録画は無理なんだから、「電波を機器に入れてる奴」が「複製の主体だよね」と。

自炊代行でボタンのみ〜もこれと同じ解釈をされると考えられます。
すなわち、「業者が複写装置(スキャナ)に原稿をセットする」と言う行為が「複製行為の主体」と判断されると考えられます。最高裁がこれを頑なに守ってる。
よって違法と判断される可能性が高いです。
成文法採用での解釈として間違って居ないといえば、そうなのかもしれませんが……

ちなみに、まねきTV裁判と言う似たものがありますが、こちらは「ボタンだけリモートで」とはちょっと違う最高裁解釈なので、事例としては不適切と考えました。それ以前にかなりトリッキーに法文ひねくり回して違法にしてるとしか、言いようが無いんだけどね……

まとめ

立法論で考えるのであれば、「消費者の利益」だけではなく「著作者の利益」も同時に天秤に乗ります。
自炊代行と言うのは、この天秤に乗せたときに、「著作者の利益」を大きく損失させかねないものです。危険すぎる。

そこで個別の著作物、個別の事例を取って「そうではない」と言うのは、『立法論として不適切』です。立法論を言うのであれば、著作物全体を同時に視野に入れなければならない。本以外も含めてです。

私的複製はあくまでも「零細」であるべきです。今後の将来にわたってです。零細であるからこそ、著作権の制限として立脚してよいと考えます。零細だからこそ「フェアユース」として認められるものだと。

本の複製は手間だ。それは認めます。しかしその「手間」がDRMの一種であり、「著作財産権」を守る一つの方法なのが、現実でしょう。

その手間をかけての複製、それ自体は禁止されていない。
だからこそ、「自炊代行は認めないが、自炊は認める」と言うのを法の落としどころとするのは、消費者と著作権者とのバランスのちょうどよいところだと、私は考えます。

そもそも「私的」複製が認められた経緯とは

権利としての確立への反論を行ったので、ここから先は「私的複製が何故認められているのか?」を考えましょう。「現行法となった立法論で(過去に)何が考えられたのか」と言う辺りです。

前回の日記は「現行法を解釈して、自炊代行の法的妥当性」なので、違う話題になります。

そもそも私的複製はどういう経緯で認められたものなのでしょうか?

元々は、「個人」が「個人的に、もしくは家庭内(に準ずる範囲)」で公開するために行われる複製行為(複製権の侵害)は

  1. 事実上の問題として家庭内の行為を禁止するのは難しい
  2. 【零細な行為】であるため、著作権者等の財産権を【不当に】害するとはいえない

と言う条件があったために、認められた物です。

現実問題として、著作物の複製を行うというのは、それなりの施設が必要でした。

出版物では、製版・印刷など。レコード、CDではプレス機。などなど。

もともとの copyright が「出版業者間の利害調整」から出てきたのも、そういう背景があってのことです。

そのため、著作物を正当な形で入手した利用者が、家庭内で行うような「零細な複製行為」は、著作権者の「財産権」を【不当に】害するとはいえない、として権利制限としたのです。

この項目は時代と共に何度も見直されており、大昔には「ビデオデッキが普及した頃」に「TVの録画は私的複製ではない」と言う裁判が起こされたりもしています。
審議会でも、ビデオデッキによる放送の録画、コンピュータソフトウエア、データベースなどについての審議記録などが残っています。

http://www.cric.or.jp/houkoku/houkoku.html

今回の話とは直接関係無いですが、過去から今に至る転換点の一つの事例としては、CDが普及して後の「デジタル録音」における「複製」の扱いでしょうか。

それまでは「アナログ」での複製であったために、「複製物」は必ず劣化していました。これは私的複製を認めていた理由の一つでもありました。

しかし、CD以後デジタルコピーが可能となったことにより、【複製物が劣化しなくなり】ました。このため、「零細な複製行為」であったとしても、著作権者の「財産権」を【不当に】侵害している(複製物が著作物と同じ価値を持つ)と判断されました。

そのため、「私的録音録画保証金制度」が1992年の著作権法改正で取り込まれました。

このように、「私的複製」と言うのは、あくまでも

  • 「零細な複製行為」である事
  • 【不当に】著作者の財産権を侵害しているとは言えない行為である事

が条件となるのです。

自炊代行業者と言う問題

自炊代行と言うのは「新しい業種」のように見えますが、実体はすでに過去から審議されてきたものと変わりません。

著作物の複製を生業とする業者です。

これについては前にも取り上げましたが

第2に「使用する者が複製することができる。」と規定し、複製主体を限定している。例えば、親の言い付けに従ってその子供が複製する場合のように、その複製行為が実質的には本人の手足としてなされるときは、当該使用する者(親)の複製として評価することができるとしても、例えばコピー業者のような複製を業とする者に依頼する複製は、この要件に該当しないものと解される。ただし、著作物に該当しないもの並びに著作物には該当するが著作権者の許諾を得ているもの及び著作権の消滅しているものの複製については違法となるものでないことは、いうまでもない。

http://www.cric.or.jp/houkoku/s51_9/s51_9.html

にあるように、過去から審議されてきた問題です。

【例えばコピー業者のような複製を業とする者に依頼する複製は、この要件に該当しないものと解される】

とあり、そもそも社内業務における複製ですら私的複製と認められないなどの判例もあることから、この判断は今まで変わっているとはいえません。

何故でしょうか?

これが、先に取り上げた私的複製を認める条件の2つ

  • 「零細な複製行為」である事
  • 【不当に】著作者の財産権を侵害しているとは言えない行為である事

これらに当てはまらないからです。

一つ目。個々の事例では確かに「個人の要請に応じての複製」であるため、「零細」と言えるかもしれません。しかし、「事業主」が行っている行為を見れば、到底「零細」とは言えない量の複製になります。
自炊代行業者もそれが曲がりなりにも「生業」として成り立つなど、明らかに「零細」とは言えない複製の実態がそこにあります。

「零細」とは言えない以上、それは「著作者の財産権(複製権。権利の問題であって、金銭の授受の問題ではない)」が侵害されていると言えるのです。

「個人の自炊の手間を省いていることが問題なのか!」と言うコメントがそこかしこに見られますが、「明らかに問題」なのです。

あくまでも「複製を個人が行うにはそれ相応に大変な行為」であり、「零細にしか行うことが出来ない」ために、【私的複製】として権利制限が認められているのです。

ここの判断は過去から今まで変わっていません。

『立法論として論じる』としても、自炊代行を認める場合には、CDなどの音楽著作物の複製代行、DVDなどの映像の著作物の複製代行などをどうするかと言う問題も同時に発生します。(コピーコントロール関係から不許可と出来ますが、それは業者による複製代行を認めた上で生じる制限のかけかたの問題で、認めるかどうかとは別問題です)。

電子書籍を出せばいい。その代替だ」と言いますが

  1. 電子書籍として売れば、著作権者の利益になる
  2. それを自炊代行業者が代替している

となると、それこそ「著作権者の経済的利益を不当に損失」させていることになり、認められるものではありません。或いはこれは出版権の侵害と言えるかもしれないものです。
出版社が自炊代行をやれよと言う提案もありましたが、これは立法論ではないので割愛。

結局、私的複製とは「使用する個人が苦労して複製する零細な行為」だからこそ「円滑な使用を優先してお目こぼしすべきだ」と言う話なのです。
これが『個人が複製する権利』を認めたわけではなく『著作権者に対して特定のルール下での複製は、法的には侵害とは判断しない』と言う制限になる理由です。

立法趣旨がそこにあるために、「自炊代行を認めるよう法改正すべきだ」と言う論には賛成できない。
利用者の利便性の問題よりも、著作者の損失の問題の方が大きいためです。
権利は抑制的であるべきですが、「法で認める権利侵害もまた抑制的であるべき」です。

「私的複製権」を新設すべきか

まず最初に、軽く突っ込まれた

個人的には「私的複製」が権利として確立されるべきと思っている。

について考えて見ましょう。

私は、これは反対であり、そもそも「無理」だと考えています。「私的複製とは何か」を考えると、それを「権利として確立する」こと自体が無理ではないかと。

著作物にかかる権利

まず。

多くの著作物は、「情報として著作」が「物体に固着された状態」で取引されます。
この状態を取らないものとして「インターネットにおける情報の送受信」があり、ゆえに著作権法が改正されて公衆送信権が制定されましたが、とりあえずここは置いといてください。

話を戻します。

「情報が固着された物体」としての「著作物」に関しては、権利としては2つのものが同居しています。

  • 物体として所有権
  • 情報としての著作権

これらについて、きちんと区別して考える必要があります。
区別が付いてなくて訴えてた人の「反論」を滅多切りにしていたのもありましたが、それもこの辺りの権利を混同して考えてるのが原因でしたね。

物体への所有権、考察

一般に「物体」に関しての権利と言うのは、他の「物」の所有権とほぼ変わりません。

違いがあるのは、例えば本などの再販制度で、本来物体の販売価格については、通常は自由に設定することが認められています。現在の日本では著作物では「書籍」「雑誌」「新聞」「音楽(音楽用レコード、テープ、CD)」についてのみ再販制度の縛りがあるが、基本的に「所有権の移譲に関しての値段」については小売の自由となっています。
ちなみに、過去にソニーが「ゲームソフトも再販制度品だ!」と言うことで小売を縛ろうとしましたが、これは司法で却下されています。他、映画における映画館の上映用テープの取り扱いなどが「物体の所有権」自体は移譲させない形を法として細かく組み込んでいる(貸与権)など、ちょこちょことした違いがあるにはあります。

他には、音楽CDなどの輸入権とか、「物体」面で見た場合でもかなり特殊な扱いのものが、あるにはありますが……

しかし、基本的に「物体の所有権」に関しては、古本屋などの古物商に対して、その「所有権の譲渡」が自由に行えるなど、概ねの扱いは他の所有物についてと変わりません。
この辺りについては、例えば「ゲームソフトの中古販売の裁判」などでも「中古販売を行ってよい」と言う判決が出ていることからも、確認できることです。

情報への著作権、考察

次。

情報としての著作権ですが、基本的にこれは譲渡されません。常に著作権者(not 著作者)に付随します。

その著作者に対して、「著作物に関する数々の財産権」が設定されています。

つまり、著作権自体は消費者に譲渡されたものではない。これは、無体物に対する価値を考える場合に、非常に重要な概念になります。

私的複製を権利として確立すべきか?

これらの違いをきちんと把握した上で、「私的複製は権利として確立すべきか」と言う問題になります。

私的複製とは?

まず「私的複製とは何か?」を再度考え直してみましょう。

現行の法律の解釈では「個人的な用途」と使い道を限定した上で「著作物の複製を行う」行為です。

早速、ここで問題が発生してしまうのです。「著作物の複製」と言うのが、「著作権権利者にのみ認められている、『複製権(第二十一条)』と言う権利」なのです。

そして「複製権」は消費者に移譲・譲渡・許諾、されているわけではありません。

従いまして、「私的複製」と言う「権利」を確立しようとすると、「著作物の複製権」を二重に成立させる必要が出てきます。

著作権とはどのような権利か?

ここで「社会としての一般的な感覚」として、「著作権」と言う権利を何故成立させ、認めているのかを考えます。

簡単にまとめてしまいますが、著作物を製作するというのは労力がかかります。

その労力に対して「著作物の製作をしていないものが複製する行為(フリーライド)を防ぐ」と言う目的から、著作権は作られました。成立経緯を細かく追いかければ、出版社同士の複製権('copy(複製)''right(権利)')から発生したもので……となりますが、長くなるので割愛。

これは「労働に対する対価」と言う意味で、有体物を作成する「所有権」と全く同じ考えに基づきます。農業、林業水産業など一次産業で考えると分かりやすいでしょう。

そして著作権とは無体物である「著作した情報」に対する権利であり、通常「無体物」とは「有体物に固着させる」事でしか頒布できない(出来なかった)事から、枝分権として有体物の概念もある程度含む、さまざまな権利が制定されているのです。

私的複製権

ここで戻りますと、「私的複製を権利として成立させる」と言う話は、先の通り「複製権」と言う権利を「著作物作成の労働を行っていないものに認める」と言うことになります。

これは社会的に認めるべき概念でしょうか?

私は認めてはならないと考えます。これは「自炊は著作物の利用シーンを増やす作業である」と言う話とは全く違う話です。「権利」と言うのはそれだけ重たい。或いは、『その程度には重たい』物です。

フリーライドを防ぐ意味で、「私的」とは関係なく、まず、「複製権を新規に認める」と言う考え方を認めることが【文化的所産の公正な利用(第一条より引用)】とは「言えない」と考えるからです。

まとめ

以上が、私の持つ

個人的には「私的複製」が権利として確立されるべきと思っている。

に対しての反論となります。

私は「私的複製」(他、権利制限に当たる項目全てを)『権利として確立』はしてはならないと「考え」ます。

なお、余談となりますが、米国の「フェアユース」と言うのも「権利」ではありません。特定の判断基準の下で「公正な使用(フェアユース)であれば、『その著作権の利用行為は、権利侵害とは認めない』と言うもので、この「公正な使用の判断」が日本のような列挙型ではなく、裁判での判断基準で示されている、と言うだけです。