ネットで見た

「ネットで見た」。これを言うと普通はネットでは笑いものになる。
私は「ネットで見てない」と言ってる。だから『議論』にすらならんと言う主張。
 
唯一あった「ネットでも見れる」資料が「極東裁判判決文」。被害者20万以上の「26万主張から人数が減っている」判決。
政治を理由にこれにコミットするなら、まだ分かるんだがな。
 
極東裁判判決文は、米国のサイトで原文まま。誰でも確認可能だから『ネットでの』議論にこれを論拠として使うのは、『誰でも』チェック可能だから問題とは思わない。だからこそ、そこにある数字を出すために、『正しく裁判が行われたのか』が問題となる。ところが、極東裁判は『正しく裁判が行われた』と言う話の部分で、いろいろと怪しくなる。
 
 
もう一つが、賛否のサイトほぼ同じ数字を掲げてる紅卍会。
城外の死者はほぼ男性のみ、総計4万ちょっと。その詳細も含めて、賛否どちらも概ね同じような内容を持ち出してきてる。
賛否どちらもから出しているからこそ、原典に当たれなくても、それなりの信用は出来ると判断できる。
 
これら以外は『この資料によれば』『この資料によれば』を各自てんで好き勝手に引用してるため、『恣意的な引用が為されていない』と言う信用をおけない。
原典を「ネットで見れない」と言う主張。
 
 
ここから先の『ネットのやり取り』は「学問の体」を為せない。
だからやる気ねーんだよ。てんで好き勝手な資料を引いても、それは「共通の前提」にゃならん。
 
30万を押し付ける気なら
・原典を確かに捏造が無いと分かる形で、ネットでも、誰からも確認可能
最低限、これを満たしてからにしてくれ。引用もトリミングも一切無しで、信用可能なサイトからでな。賛成派のサイトも、否定派のサイトも、その時点で色眼鏡だ。
 
普通、そういうレベルに触れるのは学者先生だけなんだよね。物理的に。
で、その学者先生が喧々囂々やってる話に、真っ当に資料も触れず、解説本などから自説補強で取ってきてるネットの話なんざ、信用度が低いのは当然なわけで。
 
「否定派のネットで見た」が『信頼が置けない』意味で成り立つんだから、全く同じで「肯定派の資料をネットで見た」も同様に『信頼が置けない』意味で成り立つ。
「否定派は成り立つ」が「肯定派は成り立たない」と言うのは、明確なダブルスタンダードだ。『ネットで見た、は成り立たない』と言う筋が通っていない。
 
「否定派だから成り立たない」と言うのは、学問を馬鹿にした話だ。
学問は『常に』反論が可能でなければならない。反論こそが、学問を学問足らしめる、唯一のシステムだからだ。
「否定派だから成り立たない」を「信仰する」のであれば、それは学問ではなく「宗教」だ。私は宗教に組する気は無い。

読んだことが無いねぇ

http://b.hatena.ne.jp/edo04/20120512#bookmark-83653093

edo04トンデモ, 南京事件 史料を読んだことがないやつが、何を言っているんだか。2012/05/12

少なくとも、ネット上で言説に出てるものは、賛成反対宗教含めて読んだ。
その上で書いてますが。
 
で、私の言いたいことは

  • ネット上の人数論争は「馬鹿らしい」
  • 【学問】を否定してはならない

この二点なんですがね。
 
でね。
資料だの史料だのいうけど
http://www.ibiblio.org/hyperwar/PTO/IMTFE/IMTFE-8.html
これに勝る「一次資料」にリンクしてる人は、誰もいませんでした。言っておくけどこれ「賛成派」がリンクしてた資料ね。
一応書いておくけど、これ、米国に保存されている、極東裁判(東京裁判)の判決文なので。
 
これ以外はどれもこれも『誰かが編纂した二次史料・三次史料』からの切り出し。
『切り出し』だとどのように『恣意的に編纂』されたかわからない。というかその二次史料を編纂した『誰か』が、そもそもその『史料』を恣意的に編纂した可能性すらある。
だからこそ、一次史料・一次資料へのリンクが必要なんだけど、これが全然見つからない。
こんな状況で「正しい」人数論争なんかできるわけがない。
 
ついでに言えば、2012-03-04 に対して?Bを付けてるが
http://d.hatena.ne.jp/vid/20120301
2012-03-01 の方に、私が何を問題にしてるか書いてるんですがね。
南京史料を読んだことが無い? そんなものは私の意見には全く反論になっていない。的外れもいいところだ。
【ネットで行われている】南京事変の人数論争が如何に【でたらめであるか】の立証なんだがな。
 
その上で、書いておくが。

1。学問というのは【常に】反論が許される。許され【なければならない】。

なぜならば、反論があることこそが、学問における正確性の担保だからだ。
歴史で言えば、「ピラミッドは奴隷に作らせた」というのは、今では否定されている。日本史もここ20年だけでも、かなり書き換わっている。
歴史【だから】書き換えてはならないというのは、明らかに間違った【考え方】である。 
これは理系の範囲であろうと文系の範囲であろうと変わり無い。
反論を許さない時点で、それは【学問】ではなく【宗教】だ。

2。30万人説の出所はどこか?

30万言説を突き詰めると、行き着くところは結局、南京裁判の判決であって、中国共産党がこれを採用となっている。
まずこの考え方がおかしい。
 
南京裁判の後、同じ資料(当時はまだ史料ではない)を用いて行われたのが、極東裁判である。
裁判として極東裁判の方が

  • 後で行われたものであるが故に、証拠の再確認がされている。
  • 南京裁判のように、当事者である中国だけが裁判官ではない。よって、より客観的に証拠の再確認がされている。

という裁判だ。
よって、南京裁判の30万人説を金科玉条にするのは、政治、司法を理由にしても問題ある行為だと考える。これは「裁判」のシステムから言える。
 
多くの国で裁判が二審制、三審制と複数の裁判を受ける権利があるのはなぜか?
裁判を複数回行う事で、より慎重に、より公正に、判断できるという考え方から、【裁判を複数回行う】制度をとっている。
 
複数制度をとる理由が以上のようなもので、現在多くの国が三審制であるの考えれば、「国民」であろうと「国家」であろうと、同じように【複数の裁判】の方がより公正な判断が出ていると考えるのが、自然であろう。
 
よって、裁判をもとに史観を取る場合、「極東裁判」を元に人数を出す方がより「正しい」と推定できる。
その極東裁判の一次史料が「20万人以上」説なんですけどね。
さらに、その極東裁判に中国も判事を出してる。
そうやって、より多くの国が参加した「極東裁判」の人数ではなく、南京裁判の人数こそが「正しい」とするのは、司法的な視点から見て、政治的に見ても、おかしな意見です。
言っておきますが、その時出された検察役からの資料は死者「26万人以上」。それが判決では「20万人以上」になっている以上、「20万以上だから30万以上が正しい!」というはおかしな論説です。せいぜいが26万以下でしょう。でなければ、判決文でわざわざ 26万人以下にする必要がありません。

3。『裁判』が正しく行われたか?

その「極東裁判」すら、『裁判』として問題がある。
一つは「正しく裁判が行われたのか」。
一つは「証拠資料の精査が行われたか」。
これについてはめんどくさいので、改めては書かない。
 
そもそも「裁判」は学問ではない。
【学問】は裁判を元にする必要はない。どころかその『裁判』が『正しく行われたのか』すら【学問】の対象だ。

4。30万人説以外の学者は?

そもそも30万人説ってのは中国が政治的目的をもって、南京裁判を元に固持してる説なわけで、科学的根拠が存在しない。
で、学者は30万人説を採ってる人が主流でしたっけ。

まとめ

で、資料を読んでないという指摘で、「何」を教えていただけるのでしょうか?
他人に対して「何を言ってるんだか」と『指摘』できるほど優秀な方なのですから、【間違いない一次史料】に触れる方なのですよね。是非とも、そも史料を読んでみたいので、ポインタを示していただけると幸いなのですが。
どのような【間違いない一次史料】を示されるのか、非常に楽しみです。
 
そもそも、資料読んでないだのなんだの言ってる人は多いが、資料を読めば「同じ答えになる」というのが間違いでしかない。
同じ資料を読んでも、解釈が分かれることは普通に起こる。だからこそ、解釈の妥当性を論じなければならないのに、「解釈の妥当性」ではなく「資料を読んでない」とか、人格に対する誹謗中傷(歴史修正主義者というレッテル張りもこれだ)で「反論した気」になっているというのが多い。これは【学問】ではない。
 
したがって、「正しく【学問】がなされた答えか」が重要となる。私は常にそこを疑問視しており、ネット上の南京事変の言説が【論の体裁が学問と言えるものかどうか】に対して【論】を重ねているが、誰ひとりとして【論の体裁は十分学問と言える】という反論をしてこない。
ほとんどの場合が、30万を否定(日本政府の態度も30万じゃないのにねぇ)したってだけでの、私に対しての人格攻撃だ。こういう行為こそが「ヘイトクライム」であり、「レイシストの態度」であることは言うまでもない。
 
さて。
私の言論に対して「トンデモ」というからには、それが「トンデモ」であることをきちんと「論証」できますよね。
トンデモ本」を見てわかるように、「トンデモ」というには(というか、何に対してでもそうだが)、それが「おかしい」というだけきちんと論拠が示されている。
どういう「資料」を基に私が「トンデモ」なのか、【論】を示していただかないと、その「トンデモ」という言説の正しさを誰も検証できませんしね。
 
いいでしょうか。
再度書いておきますが、私が問題視しているのは、「30万」というのは【学問】として問題があるという事です。
反論は30万というのが【学問】として正しい手続きのもとで出されている答えだ、という証明です。そのために、【間違いない一次史料】を重ねることが必要なわけですね。
【政治】を持ち出すのであれば、『東京裁判での20万以上』が戦勝国による『裁判結果』であるのに、なぜこれが『間違い』であり、中国主導の『南京裁判』が正しいのかの論ですね。
もっとも、裁判も政治も【学問】を行う事の否定事由にしてはならない。よって【政治】の話でもっても、【学問】の「30万がおかしい」という言説への反論としては、反論の主体にはなりませんが。
 
いうまでもないことだけど、これに答える『必要』は全くありません。
しかし論拠も示さずに、他人に対して「トンデモ」と言い、自身の論拠を示さずにただ言い放つだけの人は、人間としてどうなのでしょうか?

もう少し細かく返答しておきます

?Bじゃ文字制限がきつい。

でメタブクマに書いた

これを叩いてる人が、普段不起立をきちんと叩いてるのかが気になるな。「思想信条の自由」として不起立を許せ!と言うなら、府議の礼節無視もまた「思想信条の自由」として守らなきゃねぇ。 2012/03/13

に反応が。

b:id:j_whiskey さん

vid 普段式典の空気を嫁と言っている側が読まないでやってるからバカにされてると思いますよ。そんなこともわからないんですか? なんで?

http://b.hatena.ne.jp/j_whiskey/20120313#bookmark-85126409

式典においての「不起立」を「思想信条の自由」と言っている人々は、「空気を読む必要は無い」と言ってるわけですよね。
そういう人が、『この場合に限って』「空気嫁」と言うのは、見事なダブルスタンダードですね。
私のはそういう突っ込み「だから」メタブクマに書いているわけです。
 
もしも普段「不起立と言う空気読まない行動を是と言っている人々」が、「府議の空気読まない行動に対しては『空気嫁』とバカにしている」、一体「空気を読む」とは何のことなんですかね。なんで「府議」と「教師」で正反対の言動をしているんですか? 「思想信条の自由」は「憲法に保障された権利だ!」と裁判起こすほど信奉しているのに。
 
当の府議に対した記事への私のコメントは

主人公は誰か? 馬鹿の行為でしかないわ。式典、儀礼の場でやること、礼節をわきまえていないのは、不起立と全く変わらん。教員に「止めろ」を突きつけた以上、自らの態度で示せ。議員を止めろ。

http://b.hatena.ne.jp/vid/20120313#bookmark-85070605

です。府議の行動の馬鹿さ加減をフォローする気は一切ありません。
このコメントの意図の詳細は、今日、この日記の上の方に書いた通りですしね。
そんな「府議の行動」と、「不起立を是としている人々の行動」は全く別の話です。
言論に一本筋が通っているかどうかを見てるわけですよ。「不起立を是としている人々の行動」に一本筋が通っているかどうかをね。
 
ついでに言えば、私の国旗国歌に対する意見の根本、筋は「儀礼の式典での礼儀」だけです。
話題はちと変わりますが。
今日の日記で解説しているように、「歌唱の強制」には反対しています。「儀礼の式典での礼儀」として、沈黙は問題ないと考えているからです。
歌唱の強制ですが、最高裁判決では「起立『斉唱』の命令は合憲(職務の裁量内)」とされており、「歌唱しない=職務命令違反」は『司法の面で見て』もはっきりと確定しています。
よって「歌わない」ことを問題視する橋下グループのやり口は、「法」で見て「問題とは出来ない」わけですよ。「歌っているか確認した」校長含めてね。
そういう「法」が決まっている*にも関わらず*、私は「歌唱強制」は反対なわけですよ。
なぜなら、「儀礼の式典での礼儀」としては「国歌」に対しては「静寂」までが「礼儀」として必須行動と考えているからです。理由は先に書いた日記を見てください。
 
と言う事で、?Bコメントに戻るわけです。
私は国旗国歌に対して「儀礼の式典での礼儀」と言うところを、たがえていません。
国旗に対する起立を問題なしとする事。
式典での来賓挨拶で教師に対する言が問題であるとする事。
国歌の強制は問題であるという事。
全て、「儀礼の式典での礼儀」として、あるべき規範を想定しての言動から見てコメントを行っています。 
「『不起立は思想信条の自由で、問題ない行為だ』と普段叫んでいる人々が、そこまできちんと「筋の通した意見を述べている」のだろうか?」と『メタ』ブクマに書いているのは、どこまで的を外したコメントでしょうか?
『不起立は思想信条の自由で、問題ない行為だ』と普段叫んでいる人々が、府議に対して「空気読めてない」と言うのは、「筋が通った意見」ですか?

余談

段をかえて。

歌唱チェックについて

では「歌唱チェック」には「やりすぎ」と入れてます。
これは、ここは私個人の意見(主観)になるのですが、「国家」に対しての儀礼の礼節と言うのは「静寂」までが必須で、「歌唱」は不要と考えているからです。
理由1。音痴の問題。説明不要ですね。
理由2。歌詞記憶の問題。これも説明不要ですね。
理由3。「外国の国歌」に対する問題。覚えてる人どれだけ居るでしょう?
別に国歌が想像しにくければ、校歌でも十分です。甲子園なんかが良い例でしょう。
 
外国(確かイスラム圏じゃなかったかな? この前のニュース)での同様の「国歌を歌ってない!」ってのが吊り上げられた奴には、確かコメントとして「口パクしてりゃいいのに」ってのを書いています。
それと全く同様に、教師に対しても「余計な面倒抱えこむなら、口パクしてりゃいいのに」とは思います。
でもね。それはあくまでも個人に対しての「感想」なんですよ。
 
権力側から要請、或いは命令してよいのは、「静寂(式典の進行を妨げるな)」までと考えます。これ以上を求めるのは、個人の行動の自由を縛り「過ぎる」行為でしょう。たとえ、式典運営側の教師であってもです。
理由は先に述べたとおり。思想も主義主張も関係なく、「記憶」と「歌唱能力」は個々人によって差があるからです。起立したくないので両足を折ったという虚構新聞ネタではありませんが、「個々人によって明確に能力差がありえるもの(客観)」への依存度が高い、あるいは「ばらつきが高い」ものである以上、「歌唱」まで求めるのは酷です。
別に教師じゃないパターンだって考えられますよ。先の理由3に真っ向かぶる存在として、留学生なんか見事に当てはまりますよね。彼女ら彼らにとっての国歌とは「母国」のものであって、「日本」ではない。
生徒は別だというなら、外国人の外国語教師でもいいですよ。記憶・歌唱を強要しますか?
 
だから「国歌」に対しては、「静寂」までを「儀礼の礼節」と考えているわけです。
したがって、『たとえ日本人の教師であろうと』「歌唱」まで強制するのは、やりすぎだと判断しています。

台湾の献花

こちらでは、献花させないことについていろいろと。
これは「外交」が絡むことではありますが、どう考えてもこれは日本の株を落とす行為でしかないからです。
感謝の新聞広告で、「国家として」は台湾には出していないこともそうですが、中国に阿りすぎなんですよ。
台湾と言うのは、額も時期もかなり早いタイミングで援助を行ってくれました。
国家レベルでの行いだから「外交」が絡むのは確かに気にしなきゃならんところでしょうが、この「祭礼の式典」で考える事は、まずは「儀」と「礼節」でしょ。
もちろん、外交は献花一つで決まるものじゃないというのは言うとおりです。
しかし、中国の顔色を伺うばかりに終始して、援助をしてくれた人を蔑ろにするというのは「儀」も「礼節」も欠く行為です。
国家主権。日本と中国は建前であろうと、国家としては対等です。
鎮魂などの祭礼の場、「儀礼の場の礼節」は国家としての品格を問われる場ではないのでしょうか。
そんな場でさえも中国の顔色を伺うというのは、どう考えてもおかしいと考えます。
 
これが晩餐会のような外交政治の色が強いものであれば、台湾を袖にするのは「まだ」理解できますよ。その場合でも文句はありますがね。
しかし、先に書いた通りこんかいの式典は祭礼であり、鎮魂なのだから、『外交』を盾にして全てを説明するのは、どう考えても「品格」として問題だと考えます。

言説が適当である証明になる危険があるんだがなぁ。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120313-OYT1T00155.htm

これで、私が書いたコメントに☆が集まってるのが、非常に違和感。大丈夫なのかなぁ。

主人公は誰か? 馬鹿の行為でしかないわ。式典、儀礼の場でやること、礼節をわきまえていないのは、不起立と全く変わらん。教員に「止めろ」を突きつけた以上、自らの態度で示せ。議員を止めろ。

普段私の言説に近い立ち位置の方は全く問題ないんですけどね。
 
(ネット)サヨクで普段「思想信条の自由」を金科玉条に掲げて「不起立は妥当」と叫んでる人がこれに☆をつけた場合、それはダブルスタンダードを見事に証明してることになるんだよね。
☆つけた人を一々チェックして回ることはしないが、そこがちと気になった。
 
他の?Bでだけど、私は「起立命令は妥当」「思想信条の自由の問題ではない」と明確に書いており、また論点として「儀礼の場の礼節」「式典の主人公は誰か」と言うのも全くぶれさせてはいない。いないはず。
で、例えば同じような「儀礼」の論としては

こんなのも書いてるわけで、ところがこちらには☆無し。
だから「違和感」を感じている。
先に書いた通り、どちらも「儀礼の場の礼節」の問題として同じ視点なのに、府議のだけが受けてるってのが、?Bの見事な「異常」が浮き出てるんじゃね?とね。

思想信条の自由

(1)「不起立」を「思想信条の自由」として問題ないと言うなら、府議の「思想信条の自由」もまた同様に認め『なければならない』(MUST)。思想信条の自由と言うのは「全ての人間」に認められる『べき』ものであって、府議だから「認めなくて良い」と言うものではない。
(2)よって、「式典の儀礼」よりも「不起立」を叫ぶ人間は、同じく「式典の儀礼」よりも職員の態度を問題にしている「府議の演説」と言う「思想信条の自由」を『尊重しなければならない』。
分かりやすい論理です。
(※ 2012-03-14:上記部分、内容がおかしかったため、一部修正しました)
よって、普段「不起立」を掲げておきながら、府議を叩くのには賛同した場合は、『思想信条の自由は金科玉条に守られなければならないものだ』と言う普段の言動を「翻した」証明になる。
明らかな二重基準ダブルスタンダードだよね。
もしも「教師の思想信条の自由」は認められるべきで、「府議の思想信条の自由」は認めてはならない、だったら、それはヘイトクライムであり、レイシストだ。
あるいは職業による差別を平然と認めたことになる。職業による差別を認めるのであれば、「教師と言う職業故に起立命令は妥当」と言うのも、全く同じ「職業の差別故に押し付けられること」だろ。
と言う事で、見事に普段の言動が破綻する。
 
てなわけで、「府議を止めろ」と言う文面だけを見て、見事にダブルスタンダードの馬脚を現してる(ネット)サヨクが居たら、お笑い種だなーと。

礼節

でね。私のは最初から書いてる通りに、「儀礼の場の礼節の態度」なのよ。
教師の不起立は儀礼の場の礼節を欠く行為であり、府議の教師への文句もまた『主人公である生徒のための式典』であるが故に『生徒を無視している』事で礼節を欠いている。
そして、「礼節を欠く行為を止めない教師は、教師である資格無し」と宣言している党に属している以上、自らも同じ「法」に基づかなければ問題だと。泣いて馬謖を斬る、じゃないが多種多様な価値観に対して「法を寄る辺」として社会を構成している以上、「人によって法を違えることは問題」であると。
そして「法を作る人間である府議」故に「府議を止めろ」につながる。
で、この「府議を止めろ」だけを礼賛した☆じゃねーだろーな、と言うのが気になるわけで。
 
ちなみに、この「法」に対する態度も全く変えてない。「寄る辺」の方ね。

てなわけで

普段「不起立は問題ない!」叫んでて、私のに☆つけた虚け者はいねーだろーなと。
ま、調べるほどの興味は無いけど。
とにかく、☆の集まり方が不自然に感じたって事での疑念を書きなぐっておくテスト。

本題ではない方向です

b:id:hokusyu さん、ごめんなさいm(_ _)m
多分、私からの?Bの id コールが3発飛んでますが、ブラウザがおかしな挙動をしてたので、その影響です。
嫌がらせとかそういうつもりで行ったものではありません。こちらにとっても想定外の動きでした。
「重複」状態の後半2つ、こっちでは消しました。
 
これについて適当な場所が無かったので、日記からのコールになっていることは、ご了承願います。
ご迷惑おかけしました。

で、これを書かないと話を聞かないのだろうから書いておく

はっきり書いておくが「ネット上の人数論争、虐殺論争」は「無価値」と私は判断している。
それは決定的な「原典」に当たれる人間が少ない事。私も当たれないものばかり。一次情報でも客観性の問題が数々あるのに、二次情報、三次情報ともなるとそもそもの「色眼鏡」が酷すぎる事。これは賛成派も反対派もだ。その上で、「宗教口論」になってて、「俺の意見が正しい。認めないのは人間じゃない」と言うような言説ばっかり。
こんなものは全くの無価値だ。
 
無価値であり、前述の私の議題「学問への態度」に対してノイズである以上、「数字」「定義」に関する反応は全てのコメントを削除する。(ルールの明示)
 

以上の持論の上で記述しておく。どうせ最後は誹謗中傷の応酬にしかならんから、やりたくないんだがな。
 

事件の有無から曖昧な痴漢と、大量殺害が厳然とあり、かつ確認済み事実を無視する奴の話を同列にすんなよ。

先に書いた通り、「大量殺害」については、「戦争に伴う戦闘行為」であれば問題ではない。
「大量」「虐殺」の意味で書いていたとした場合、「虐殺」があった事実があれば、即時に「30万」が正しくなるわけではない。戦闘行為での死亡者は「虐殺」ではない。
で、これを書くと「捕虜の殺害は虐殺だ!」と来るわけだが、そこに関しても「学者」レベルで虐殺派と非虐殺派が居る、と言う事実の時点で、やり合うだけ無駄。学者のレベルでこれな事が決定的な論拠が無い証左だ。そんな状況で、ネットでまともな「論」争ができるわけがない。
 
そもそも、極東裁判の時点でも「事実」が「確かに事実であったのか?」と言う『証拠の精査』がなされていない。当時の時点で「事件の有無が曖昧」なままに大雑把な数字で「事実認定」してる。「事実」には「証拠の客観性の精査」も当然含む。
そういう「事実」があるから、後世に「事実の有無」をあれこれやる事になってるのが現状。
「確認済みの事実を無視」と言うが、なら「極東裁判でさえ真っ当に『証拠の精査がなされていない』と言う事実を無視」するんですかね。
 
次。
「30万」と言うのは中国共産党によるプロパガンダ。これを鵜呑みに出来るわけがない。
日本の学者って「30万」を語ってるんでしたっけ?
 
次。
「20万以上」論の実例。
http://www.ibiblio.org/hyperwar/PTO/IMTFE/IMTFE-8.html
城内外(周辺含む)での15.5万人のカウントできた「埋葬者数」に、「燃やしたもの。河に流したもの」で見つからなかったであろうを加味して「20万以上の被害者」と推定しているもの。
ネットで「論拠」ありで論じるなら、これが一番客観性のある論拠でしょうな。
30万人説を取っていないね。

で、これ以上については

否定派のものも、肯定派のものも、出している証拠に色眼鏡と恣意が入りすぎているので、数字論争も「虐殺」論争もやる気はない。
先に書いた通り、ここについては客観性や証拠能力の高い資料に当たれる人間がそもそも少ないわけで、ネット上のは色が付きすぎている。
だから私はここには踏み込まない。
先に書いた通り、これらについては「無価値なイデオロギーの押し付け合い」にしかならない「から」やらない。
 
何度でも書くが、私の突っ込みの主題「学問としての態度」に対して、きちんとしたディベートにも使えるレベルでの反論で無ければ、ノイズとして削除する。
少なくとも私の手の届く範囲に一切のノイズを残す気はない。